【掌編】だからあなたにありがとう
第31回「小説でもどうぞ」に応募したものです。供養代わりに。
「やあ、久しぶりだね。元気だった?」
ベンチに座ってスマホを眺めていた俺の横に腰かけた男はにこやかにそう声をかけてきた。気安い口調だったがこちらとしては男に一切見覚えがない。ただ湛えられた笑みが白々しいものに見えて不快感を覚えた。ただでさえ社内の雰囲気が悪くて息も詰まるほどだというのに、せっかく見つけた誰もいないスペースでこんな奴に絡まれるだなんて全くついていない。
そう。ここ最近、社内の空気は最悪だった。今すぐ会社自体が倒れることはなくても採算の取れない部署から何人か切られるかもしれないという噂は着実に真実味を増していた。
そして俺の部署というのは不幸にも社内外の人間の口に上る不採算部署であった。誰が切られるのか、みんな疑心暗鬼になっている。あまりの緊張感で事務机に座っていられなくてタバコを言い訳に部屋を出てきたのだ。しかしタバコ休憩なんてそう長くも取っていられない。だから束の間の安息だったのに、一体誰なんだこいつは。
「今も吸ってるんだね。若いうちからやってたもんな」
若いうちからと言われても今も十分若い。誰かと間違えているのではなかろうか。一瞬そう思ったが、もしかして入社以前から俺を知っている奴なのか。例えば学生時代、とか。
「僕だよ。人見」
「……え、あの人見?」
想像した通り高校時代の級友だった。いや少し違うか。こいつと親しくしていた覚えなんてない。学生時代のこいつは友達もいなくて教室の端っこで一人本を読んでいるような奴だった。言ってしまえばスクールカーストの底辺にいたような奴で。間違ってもカースト上位だった俺ににこやかに声をかけてくるようなことはなかったのに。
「お前、よくこの会社入れたよな。ああ、でもお勉強はよくできてたか」「察しの通り面接はひどかったよ。その点、下平君はさすがだよね。外回りとかやってるんでしょ」
「まあ。コミュ力には自信あるからな」
しかしちょうどよかった。もう少しだけここにいよう。こいつで憂さ晴らしをすればいい。やけに馴れ馴れしいから、ちゃんと自分の立場ってやつを分からせてやらないと。
学生時代から俺はずっと人に囲まれていた。営業担当の若手の連絡先は基本知っているし近況報告を兼ねた飲み会も定期的に行っている。しかし誰の口からも人見の名前は聞いたことがない。きっと今もデスクで一人陰鬱と過ごしているのだ。それで顔見知りの俺を見かけて嬉しくなって声をかけてきたのだろう。全く持って救いようのない奴め。
「お前はどうなの。営業成績とか」
「なんとかって感じかな。毎日覚えることいっぱいあって大変だよ」
なんだ。まだそのレベルか。俺たちの年齢であればまだ若手と言って差し支えがないが、俺は徐々に自分の顧客を獲得してきている。やはり俺と人見では社会人としての、いや人間としての優劣が違うのだ。
「もうちょっと上手く立ち回れよ。若手の勉強会、お前も来る?」
「いやあ。僕はやめとく」
「バカだな。そういうところにチャンスが落ちてるってのによ」
若手の中でも有能だという自負がある。連中ときたら弊社に好意的な企業の名前を自慢げにポロポロとこぼすのだ。それを上手く拾っていけば簡単に成績は稼げる。得意先を奪っただなんて言われたこともあるが自分の愚かさを棚に上げて何抜かしてるんだって話だよ。人見も多少は使えるかと思ったがどうやらそれ以前の問題らしい。だからバカは困る。
「お前本当に大丈夫なのか。うち、結構危ないんだろ?」
「ああ、リストラの話? ああいうのはとりあえず将来性ありきで人員を選ぶから。今は中堅どころが怪しいんじゃないかな」
さすがにリストラの話は耳に入っているのか。しかし意外と悠長に構えている。現実が見えていないのだろうか。自分の立場というものを分からせてやらないと。
「将来性ね。年齢だけで言えばそうだろうけどさ」
「ふふ、不満げだね。俺には慌てていて欲しかった? そしたら君は安心できるもんなあ」
「……お前さっきからすげー馴れ馴れしいけど、自分の立場分かってんの?」
「君よりはちゃんと分かってるつもり」
そう言うと人見はすっと笑みを消した。なんだその表情は。こんな凄みをこいつから感じたこと今までないのに。
「君さ、自分の勤務態度の評価ってどう思ってる?」
「そ、んなの、営業成績が証明してるだろ」
一瞬怯んでしまったがすぐに立て直す。口はうまい方だ。今までそうやって生きてきたんだから。
「外回り行くって言ってさぼって。手柄を横取りされたって若手社員からいっぱい苦情出てるのもちゃんとウチは知ってるんだよ」
「ウチ?」
「人事部」
サーッと血の気が引く。営業の飲み会で姿を見ないはずだ。まさか人見が人員整理をする側の立場だっただなんて。
「学生気分を引きずるのも大概にした方がいい。僕から言えるのはそれくらいかな」
そう言って立ち去ろうとする人見の腕を咄嗟に引っぱる。人見は緩慢な動きでこちらを向いた。
「その、俺って」
「ああ、まあありがとう」
「なにが」
「自分のことしか考えてないクズのままでいてくれて。これで心置きなくお前のこと切り捨てられるよ」
人見は去り際に俺の肩をぽんと叩いて「転職先早めに探したほうがいいよ」と言った。ああ、リストラって本当に肩を叩かれるのか。勝手に喉が鳴る。なんで。今までずっとこれでうまく生きてきたのに。紫煙はとうに消えており、屋外の寒さがただただ痛かった。