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【掌編】ある大雨の日

 さっきまで晴れていたのに突然空が暗くなった。おまけにゴロゴロという音まで聞こえてきたような。とにかく家に帰ろうと走り出したのだが、すぐにぽつりと頭に何かが当たって足が止まる。
「わ、わっ!」
 空を見上げようとしたのだが、それより早く大粒の雨が降り注いできた。もう雨も見えないほどのすごい大雨だ。バケツをひっくり返したようとはこのことか。慌てて近くの軒先に逃げ込む。地面からの跳ね返りで濡れはするが、何もしないよりましだ。
「助かった……うわっ!」
 空が光ったと思ったら突然大きな音がした。きっと近くに雷が落ちたのだ。こういう時ってどこにいればいいんだっけ。ここは大丈夫だろうか。不安な気持ちのまま、誰かに頼れないかとあたりを見回す。誰もいない。このままここにいても雷が落ちることはないのだろうか。
 その時、ふと遠く道の真ん中に黒い塊のようなものが見えた気がした。なんだろうと首を傾げているとまた雷が落ちて驚きのあまり体が跳ねる。それと同時に黒い塊も動いたように見えて目を瞠る。犬か何かが動けなくなっているのだろうか。少し迷ったが、心配の方が勝った。
 濡れるのも構わずに黒い何かに近づく。するとそこにうずくまっていたのは犬でも猫でもなくまさかの人間だった。小学校低学年くらいの女の子がずぶ濡れになっている。一瞬理解ができず、思わず大きな声を上げてしまった。
「ちょ、何してんの!?」
「雷が……」
「雨降ってるんだよ? あっちに屋根あるから歩こ。ね?」
「だめ。おへそを守らないと……」
 雷におへそ。つまりこの子は雷様にへそをとられないようにお腹を押さえているということか。こんなにもべしゃべしゃに濡れながら。
「大丈夫だから。風邪ひくよ?」
「でも、おへそとられちゃったらどうなるの?」
 そんなこと聞かれても僕だって知るわけない。そもそもへそなんてとられない。しかし本気で雷様の話を信じているこの子を説得しているような余裕はない。話している今だってどんどん雨は強く降り注いでくる。
 一体どうすればいいのだろう。自分だけ屋根のある所へ逃げてもいいが、見捨てるようで気分が悪い。一瞬悩んだが、すぐに覚悟を決めた。
「ならおへそ守ったままでいいよ。おうち教えて。送ってあげる」
「え、でも」
「大丈夫。こうするから!」
 戸惑う女の子を抱え上げて胸に頭を押し当てる。女の子にへそを押さえさせたまま動くにはこれしか思いつかなかった。
「気休めだけど、これ被っといてね」
 カバンからタオルを出して女の子の頭に被せる。そして女の子のガイドに従って走り出した。さほど遠くなかったのが幸いした。なんとか女の子を送り届け、ここまで濡れたらもう一緒だろうとそのまま家まで走る。母親からは大変叱られたが、それよりどっと疲れてしまい、とにかく早く休みたかった。
「くしゅん」
「あんなに濡れるから。雨宿りとか考えなかったの」
「まあ……はい」
「もー馬鹿だねえ」
 あの大雨の日から三日が過ぎた。その間、僕はずっと高熱にうなされていた。あれだけ濡れたら仕方ないと思うとともに、あの女の子は大丈夫だったろうかと心配になる。僕がもっと大人だったら、もっといい方法を思いつけたかもしれないのに。
 親には結局ずぶ濡れになった理由は言わなかった。というか言う機会を失った。ぐずぐずと言葉をにごしていると、突然インターホンが鳴って母と顔を見合わせる。
「あれ、誰だろ」
「プリント持ってきてくれたとかじゃないかな」
「なるほどね。あんたの好きな子だといいわね。茜ちゃんだっけ?」
「え、ちょ、なんで知って」
 母はニヤリと笑って玄関へ駆けていってしまった。茜じゃありませんように。そして母が誰にも余計なことを言いませんように。そんなことを祈っているとがやがやと足音が近づいてくる。どうしたんだろうか。風邪っぴきの姿など誰にも見せたくないのだが。
「勇気、あんたやるじゃない」
「なにが……あ」
「お兄ちゃんだ!」
「その節はうちの子が本当にすみません」
 母と一緒に部屋に入ってきたのは先日抱えて走った女の子と彼女にそっくりな女性だった。女性は頭を下げると見舞いだと言ってテレビでしか見たことのないような果物の盛り合わせを差し出す。
「タオルにお名前があったので学校に聞いたんです。美雨は喘息があるので家に送ってもらって本当に助かりました」
「あ、いえそんな」
 大人に頭を下げられて慌てる僕を見て母はケラケラと笑った。そして僕の頭にポンと手をのせる。
「なーに。あんたヒーローみたいだね」
「別にそういうんじゃねーし」
 照れてついそっぽを向く。しかし僕の心中など大人にはお見通しのようで、揶揄うように笑い飛ばされた。

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