雅楽のことわり、自然を表現する1300年の音楽
「ほぼ日の學校」アドベントカレンダーです。
今回視聴した授業
私にとって「これぞ、ほぼ日の學校!」という授業は、著名なクリエイターや、人気コンテンツの作家や編集者のものではありません。「写真」「茶道」「書道」といった、普通の人にはどこから入門していいかわからないジャンルを扱う回です。実際、「書」については、ほぼ日の學校の授業を聞いた後に、書道博物館を訪れるようになりました。今回、また、これぞほぼ日の學校! という授業に出会いました。「雅楽」です。
東京藝術大学で7年間、クラシックや伝承音楽や民族音楽をやられてきて、30歳を過ぎて、突然、雅楽の作曲を依頼されたことで「雅楽」の世界に入られた石田多朗さんの授業です。このnoteでは、伝えられないと思いますが、この授業を聞けば、雅楽を聴きたくなること必至です。
授業で学んだこと
雅楽の成立
1300年間、今の形で受け継がれてきたという雅楽。
以下で構成されています。
上に向いてるのが「笙(しょう)」
両手で吹いているのが「篳篥(ひちりき)」
横笛が「龍笛(りゅうてき)」
お琴「箏(そう)」
ギターのように鳴らしてるのが「楽琵琶(がくびわ)」
横でトントントンと叩く楽器「鞨鼓(かっこ)」
「太鼓(たいこ)」
「鉦鼓(しょうこ)」
石田多朗さんが見つけた「雅楽」の理
石田さんは、雅楽を自然(あるいは自然と人間の中間)を再現したものだといいます。自然を再現することについて、十二単の例がありました。
要するに、音楽として、自然を再現しているというわけです。
雅楽は、指揮者がおらず、みんなが同じ曲をそれぞれの楽器で、ずらして演奏します。自然に例えれば、虫の声、葉のこすれる音、さやさやと流れる水の音、同じ瞬間から一斉に鳴り出すことはありません。雅楽は自然を再現したものだから、音が揃うことがないのです。
実際、演奏される時も、誰かに向けて演奏するものではないそうです。現代の奏者でも、演奏会で演奏後に頭を下げることに違和感があるそうです。だって、人のために演奏しているわけではないのですから。
石田さんは最初、ただ保守的だから、1300年間変わらなかったのではないか? と考えていたそうですが、今では、変わりゆく自然というものを留めるため、積極的に形態を変えなかったのだと信じているそうです。
雅楽は、ずっと曲の終わりまでテンポを上げ続けて、最後にパタッと終わるそうです。それも石田さんは、自然と言うか、宇宙の理のようなものの再現ではないかと考えられています。
雅楽の楽しみ方
自然、あるいは、自然と人間の中間を表現するものなので、それをそのまま楽しめばいいそうです。同じ海を見ても、悲しさを感じる人もいれば、楽しく感じる人もいる。人が自然と向かう時と同じように受け取ればいい、と。
そういうものであるから、演奏会で、子どもが泣いたり、急に騒がしい音が紛れても、奏者の方は案外気にされないそう。だって、自然は、そこにあるものですから。
感想
授業の最初に聴いた時は、70年代以前の古い横溝正史原作のドラマの後ろに流れるような音楽にちょっと不穏な音に聞こえました。でも、笙のだけを聴くと思いのほか美しいハーモニーで、楽器単体で演奏すればいいのに、と感じました。
授業の後半、再度、同じ音楽を聴いた時には、力強さを感じました。高い音が鳴っているのに、それを森の中、沈黙で耳が痛いようにも受け取れました。地球にある自然を意識したからでしょう。本当に、自分だけの感覚で、空を見るように、森の空気を感じるように聴くことができるのであれば、すごく楽しいことかもしれません。「雅楽」を時々聴いていこうと思います。演奏会にも行ってみたいですね。