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一票に感じる軽さを抱えても、わたしが投票に行く理由
日曜日は、第50回衆議院議員総選挙でしたね。
ネットでの投票がない現在、皆さん、投票所まで行かれたわけですよね。
おつかれさまでした。
私は、いつものように期日前に投票を済ませました。
国政選挙に留まらず、毎回の選挙で、「今回はこの人に投票しよう」というゆるぎない判断をすることはほとんどありません。当日までモヤモヤと考えるのがしんどいので、投票所入場券が届いてすぐ、早めのタイミングで期日前投票を済ませるようにしています。
今回は、期日前投票が可能な期間になっても、投票所入場券が届かなかったので、ちょうど所用に忙殺されていて、届いた翌日までには投票に行けませんでした。
それだけ今回の選挙が急だったんでしょう。
投票期間が短いということは、皆さん、何らかの都合をつけて投票まで行くことになります。仕事の帰りに投票所に立ち寄ったり、買い物帰りに寄り道したり、洗濯を午後に回したり。投票のために、それをするだけで大したもんだと思います。
一方で投票に行かない人は一定割合います。投票に行ったほうが偉いか、といえば、そんなことはないでしょう。投票に行くことで社会が変わると思えないという理由まで否定できないからです。私もそう思っています。投票に行った人が、自分の一票に価値があると信じているかというと、そうではないでしょう。
投票はしたけど、思うような選挙結果にならなかった時、「国民は馬鹿だ」「日本死んだ」と言ってみたり、自分の思う結果になった時、「ざまぁみろ」「次回は、あいつらを落としてやろう」といった発言してしまったりする人たちも、正しく理解していないという意味では、投票しない人以上に、投票行動の意味、一票の価値について理解していないのかもしれません。
私は、自分の一票についてとんでもない軽さを感じています。それでも投票に行く理由の一つは、過去、普通の国民が投票できるようにするために、民権運動や女性参政権運動で、勝ち取ってきた人たちがいるので、その人たち敬意を表し、労を報いてのことです。敬意と感謝のための行動であって、私の一票で、社会に変化が来るとまでは思えていません。
だから、40歳代後半の今は、社会を変えるという意味においては、投票行動より、直接、社会をよい方向に向けるため(もちろん「よい方向が何か」も人によって異なりますが)に、自分が解決できる社会問題が何かを意識して、自分のどんなスキルが他人に役に立てるか、を考えるほうが健全だろうと思っています。自分では難しいなぁと思いつつも、直接社会に貢献できるいろんなボランティアの情報を調べることもあります。実際には、行動に移せていないので、投票もしない、ボランティアもしていない人と、私自身の社会的な価値は変わらないでしょう。
20歳代、30歳代の頃は、自分が幸せであればそれでいいと考えていました。何より、自分の快楽が最優先でした。
これが、40歳代になって、変化しました。未来に希望を持てる社会であってほしいと願うようになりました。今、小学生の子どもがいることも影響しているのかもしれません。彼と彼の友だち、もしかすると彼や彼の友だちのさらに子どもたちの存在をうっすらと想像できるようになったからかもしれません。とにかく、自分より後に生きる人たちが生きやすい社会になることを望んでいます。
そういう今でも、自分の快楽や幸せのほうが重要度は高いかもしれませんが、未来のためなら、今、この瞬間の空腹は我慢できるし、今週は映画に行かないから、その分を寄付しようと思うことに抵抗はありません。自分のちょっとの苦痛を未来の投資に替えれるのなら、それでもいいと思っています。人生も後半に差し掛かり、ちょっとくらいの痛みならやり過ごせるよ、という気持ちからでしょう。
そうした代替のための行動のうち、自分ができる、今は手数の少ない選択肢の行動の一つが投票です。一票はとてつもなく軽いと思っています。わざわざ投票所に行くよりは、自分が何とかしたい社会問題の解決に勤しむほうがいいと思っています。でも、持ちうる少ない手数なので、それを行使するために行くんです。
以下のChatGPTの回答の通り、投票行動とは、社会参加、社会を変えるぞ、という意思の表明なんでしょう。
選挙の一票の価値について、過去の評論家や政治学者の意見を交えながら考察してみましょう。
ハンナ・アーレントなどの政治哲学者は、民主主義の基盤として「参加すること」の重要性を強調しています。彼女は「市民としての行動こそが公共空間を形成する」と述べ、社会への参加は人間の自由を実現する手段であると考えました。彼女の視点から見ると、一票は個人が公共の場で意思を示す大切な行為であり、その集合によって社会が形作られていくといえます。実際に一票が結果に影響を及ぼさなくても、それが社会的なメッセージや集団の意識の表れとなるのです。
また、エドマンド・バークは「悪の勝利を許すのに必要なのは、善人が何もしないことだけだ」と述べ、社会の健全性を守るためには市民一人ひとりの積極的な関与が欠かせないと主張しています。このような考えに基づけば、たとえ一票が大きな結果を左右しなくても、それが無行動よりはるかに有意義な行動であり、民主主義の維持に貢献していることになります。
近代の政治学者であるロバート・ダールは、現代の民主主義社会は「多元主義」によって成り立っているとし、多くの異なる意見や価値観が対話を通じてバランスを保っていると述べました。ダールの視点から見ると、一票一票が積み重なり、異なる価値観が議会や政策に反映されることによって、多様なニーズが社会に浸透していくと考えられます。
さらに、日本の評論家である小林秀雄は、個人の行動の価値を「社会の意識に問いかけるもの」として捉えており、たとえ自分が無力に感じることがあっても、そうした行動が無数に積み重なることで新たな価値観や社会的な潮流が生まれると考えました。小林の考えでは、一票は個々人の意思の発露であり、それを無意味と捉えることこそが真の「無力」を生み出すといえるでしょう。
これらの意見に共通するのは、投票は社会の一員としての「責任」を果たす行為であるという点です。一票が直接的な結果を左右しなくても、それが個々の市民の「意思表明」として価値を持ち、民主主義社会における多様な声を反映させるための不可欠な行動であるといえます。
一票がとてつもなく軽いと思っている私は、社会がよくなって欲しい、未来に希望を持てるようにしたい、という想いまでは選挙には持ち込みません。社会をよくしようと考えている人がここにいます! という意思表明のために、今回も投票をしました。
私同様に考える皆さんが、将来、候補者の意見や報道番組から、自分の社会への関心がどこにあるか確認できたら、今はそれでもいいのかもしれません………。 いや、やっぱり投票行動と社会をよりよくする目的がもっと近いほうがいいなぁ。もっといい社会参加・未来への貢献の形はないものかしら… と考えつつ、結局、来年の参議院選挙も迎えるのでしょう。
皆さんは、どんな気持ちで投票に行きましたか?
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