ほぼ日の学校 橋本治をリシャッフルする 作品の時代にダイヴする
今回は、所用があって、リアルの授業には参加できず。後追いで受講者向けに共有された動画を視聴しています。
講義タイトルは、「『ひらがな日本美術史』の何が凄いか」
講師は、橋本麻里さん(美術ライター・エディター)です。
授業の様子は、こちらをご覧ください。
(いつも素敵なまとめ、ありがとうございます)
(↓)
日本美術を見る動詞は「見る」ではない?
「治さんは…」
馴れ馴れしくしているわけではなく、同じ姓で区別しにくいので〜、と言いながら、橋本麻里さんの講義が始まります。
現代、専門家でない我々は、美術作品を美術館のガラス張りの中にある作品として鑑賞しています。しかし、当時の襖絵や屏風は、調度品として、その持ち主の生活の中にあって、当時の人々は、その位置、距離感で見て、感じています。
だから、ちゃんと作品を捉えようとすると、その暮らしのある場を想像して、そこにいることを想像して、見る・感じることで、初めて、当時の人がどう見えていたかということがわかる、と橋本治さんはおっしゃられています。
(専門家にとってそんなこと常識だとしても、一般の我々はそれを知らずに見ていますよね)
枕草子や源氏物語の訳も、同時代の人がどう見ていたかという前提を読み手の前につまびらかに提示してくれる橋本治さんが、日本美術においても、その前提があることを「ひらがな日本美術史」で、我々に教えてくれます。
一人の人が、日本美術を通史で書かれることは珍しいと橋本麻里さんはおっしゃいました。それは、自分以外の専門領域の方に遠慮したり、といろいろ理由はあるそうです。
気になる日本美術に出会ったとき、橋本治さんがそのガイドをしてくれるかもしれないというだけでも、この授業を聞いてよかったと思いました。彼の時代と時代の成果物との向き合い方は、「橋本治をリシャッフルする」講座を通じて、よく知っています(だいぶ取り扱うジャンルに偏りはあるそうですが…)。
きっと、何も想像せずにガラスの外から見るだけとは違う見方を提示してくれるのでしょう。最後には「自分で考えろ!」と突き放されるまでがセットだということも知っています(笑)
最近、心の余裕がなくて、すごく視野が狭いと感じていました。
視点を自分の側に置くだけでなく、ちょっと誰かの視点を借りることで、ややこしい問題と向き合うことを思い出すきっかけになりました。麻里さん、治さん、ありがとうございます。
いい歌を詠むため、歌の肥やしにいたします。 「スキ」「フォロー」「サポート」時のお礼メッセージでも一部、歌を詠んでいます。