ノーベル賞発表ウィークの金曜の晩に考えたこと
何か気になる出来事があって、ちょっとでもその出来事を起点に考えごとを転がしたり、何個が思考を進めた後であれば、その日のnoteは書けるのだけれど、今日は、書き出した今、そんな出来事はなかった。「おや」と思ったり、「へー」と感心するだけに終わった。仕事中も、誰かの行動に反応するだけ、自動思考したばかりで、あまり考えない一日だった。
「おや」と思ったことから、今日のnoteをはじめてみたい。
ゴジラ・フェス 2024
今日、今年のゴジラ・フェスのプログラムが発表された。
今年は、メカゴジラ登場50周年なので、新作映像はメカゴジラだと思っていたが、どうやら違うらしい。新作は楽しみだが、メカゴジラ待ちしてた気分がすかされて一喜一憂。ゴジラフェスの当日、映像が公開される時間は、一緒に行く息子に予定が入ったらしい。これも残念。
次は、「へー」と思ったこと。
ノーベル平和賞
打合せの続いた後の夕方、SNSを見て、ノーベル平和賞のことを知った。今年、広島に行って久しぶりに原爆が投下された街のことについて考える時間があった。館内の撮影自体はOK(許可なしの公開はNG)の平和記念資料館で多くの写真を撮ったが、考えが一つところにまとまらず、noteは書けなかった。でも、広島から帰ってきた後、撮った写真、特に、被爆者の描いた絵の数点を眺めるちょっと長い時間があった。ノーベル平和賞をきっかけに、世界に発信する機会を得たことは喜ばしいが、あの悲劇に対して、これまでの取り組みの成果という意味では、悲惨さを伝えきれてないことが残念でならない。
そういえば、Netflixで『火垂るの墓』が海外で公開されたのも今年だった。かなりの視聴者がトラウマになったそうだが、まだ痛み、渇きが伝わってないと思う。まだまだ核兵器による悲惨さ・痛みが伝わっていないと思う。核兵器による悲惨さについては、痛みを忘れないために、人類全員が刃物で身体に教訓を刻んで、どんな時にも忘れないようにしなければ、とさえ思っている。
生まれ育った場所は佐賀県の西部なので、隣県の長崎に落とされた原爆のことは時々考えざるを得なかった。祖母も、自宅からきのこ雲を見たという。
実は、水爆実験を契機に生まれたゴジラを考える時、ちょっとこのことも考える。「ゴジラ」という未知の脅威から始まった映画、そのキャラクター、特撮のシリーズは、娯楽作品として成立している。私も息子も、それをかなりたくさん享受している。しかし、この作品から受ける楽しさ、感動、爽快感、ポジティブな感想をそのままには感受させてくれない理由が、ゴジラの出自にある。その恐怖のメッセージが奥に潜んでいることを、娯楽を享受する側として忘れないでおきたい。『火垂るの墓』とは違う形で、核兵器の悲惨さを伝える一助になることもあるだろうから。娯楽作品として100%楽しみたい気持ちもあるけれど、楽しさを感受する自分に渡された課題の一つとして、どこかに仕舞って、時々は取り出すことをしたい。
ノーベル文学賞
そういえば、ノーベル文学賞も気になったニュースの一つ。韓国のことは、時々、ブームになる世代だったので、ドラマを見ることもあったし、食に興味が湧くこともあった。しかし、文学作品に触れたことはなかったと思う。時々、韓国の社会問題を扱った作品がテレビ番組や新聞等で目に留まることはあったけれど、実際に読んではない。せっかく目に触れたのだから、近いうちに読んでみようと思う。
その他
ノーベル賞の受賞シーズンは、必ず、ネタ投稿される殺人賞、今年はいったい誰が受賞したのだろう。