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「もしも人生をやり直せるとしたら?」という問いから、ようやく解放されそうな今

中高生の時、大学生の時、「もし生まれ変わったら?」「もう一度やり直せるとしたら…」という質問が時々、心にやってきていました。


楽しくないこと、しんどいこと、もう人生を止めてしまいたいことがあっても、何とかやり過ごし、乗り越え、通り過ぎてしまうと、もう面倒過ぎて、やり直そうなんて気持ちは起きなくなりますが、ここ2、3年、そんな問いかけが再び心にやってくることが増えました。本気で願うようなことではありませんが、もうちょっとうまくできたんじゃないかという後悔、「無理はしなくても何とかなるよ」と自分より若い人に本気でメッセージを送れるようになったからかもしれません。諦めているだけかもしれませんが。そして、他人に励ましや応援する言葉を送れるということは、今の自分がある程度、安定しているからかもしれません。

でも、自分の人生をやり直すことになると、違う人と出会って、息子が生まれてこないことになるかもしれません。それはとてもとてもつらい想像です。離婚するとわかっていても、また同じ人と出会ったら… という無駄な葛藤も同時に感じています。


生まれ変わったら、間違いなく自分の体を作ってくれた、剣道、サッカー、バスケ、柔道をもう一度、やるだろうと考えていたことがありましたが、小学校中学校時代は、体罰が普通にあった時代でもあり、あのつらい体験をして、心を痛めることはないと思うので、きっと部活は進んでやらないでしょう。もし、人生をやり直す過程で好きになるスポーツができたら、その時にやればいい。代わりに本が好きだった頃に、もっと本に向き合う時間を作ってみようと考えています。

で、進路ですが、今の人生では、好きでもなく、適性もないままに、数学科に進みました。でも、やり直した先では、きっと哲学科に行くでしょう。人生に思い悩んだ中高生の時期、哲学に興味が湧きましたが、当時は、過去の哲学者たちが、世界や社会の大問題を理解するために、適当な概念をでっちあげ、それを使って言葉遊びしているように見えていました。しかし、後になり、そうとしか考えられないくらいに考えに考えて、過去の人類の知識や経験を総動員して、考えつくしたものであることも知り、はぁ、哲学でよかったんだな、とずいぶん後になって考えるようになりました。

中高生の時は、抽象的でもいいので正解が欲しくて、数学に逃げましたが(真理に向き合いたくて進路を選んだので逃げたとは思っていませんが)、私が解決したかったのは、人生や人間が生きる社会の問題です。その問題に最初から向き合ってればよかったと思っています。

国語の成績はよかったし、今回の人生でも、やり直しの人生でも、苦手な英語はやらないといけないでしょう(哲学なら、他の言語にも触れないといけないでしょう)。当時の私大文系を進路に選んでいれば、数学科を選んだ時より大学受験で困る場面はグッと減るでしょう。今の時代のように、文系学科で、数学の重要性もきっと高くないので、数学に苦しむ時間もきっと少なくて済みます。

でも、最近、勉強をしようと思っている「統計」のテキストを眺めていて、大学の数学科に入って自分ではどうにもできない式を長時間、うんうん唸って眺めた時間があるから、文字だけの式を見て、「うわっ、わかんねー」拒絶しないで済んでいるのかもしれません。きっと、そこに意味があるだろうと思って式を凝視し続けることができます。

数学書に記載されている証明問題は、1、2行の導入があって「自明」としか書かれていない証明問題ばかりです。テキストの後ろのほうに書かれている解説がそうなのだから、もうどうしようもありません。

でも、先生の前に立って、ホワイトボードを使って証明する時、「自明」です、とは言えません。どういう展開になるのか、説明しないといけません。証明したい結果を表す式と、問題文にある前提条件、最初に問題として提示された式の間に、何らかの関係と、いくつかの式の変換があって、だから、これと結果は同義ですと、言わなくちゃいけません。

コンビニバイトで客の来ない深夜、品出しが終わった明け方、きっと証明に使えるはずの問題文より前のページに書かれていた定義を紙にいくつか書いて、ズボンのポケットに忍ばせて、時々レジに広げて眺めた時間があったから、今、世界を式を使って理解する助けになっていることは間違いありません。数学や計算ができない人間に完全に戻ってしまった今の自分ではどうすることもできませんが、それでも、式の背景にシンプルな過程があると信じることができます。

果たして、まっすぐ哲学科に行って、そう信じることができたでしょうか。



でも、苦労して手に入れたものを手放してもいいという気持ちがなければ、本気で人生をやり直してもいいなんて気持ちにはならないでしょう。

今は、人生のほとんどの経験となったシステムエンジニアとしてかけた時間も捨てることができそうです。数学については、誰に強要されたわけでもない時間がとても貴重だったので、惜しい気持ちは残っていますが、そんな数学にかけた時間さえも、捨てていいかもしれないと思えるようになりました。そう考えられるのは、いろんな経験を脇において、何でも学んでみようと今、考えられているからです。

人生は一度きりだと思われがちですが、それはあくまで物理的な観点からで、心の中では、いつでもやり直すことができます。ただ健康であることが大事な条件にはなるでしょうけど。苦労して得たものを捨てる気持ちさえあれば、いつでも新たなスタートを切ることができます。そして、新たな気持ち、新たな学びがあれば、新鮮な心で人生に向かうことができるようになるでしょう。今、ようやく「もしも人生をやり直せるしたら?」という質問から解放されそうです。今が一番楽しい時間を過ごせています。ありがとう。

いい歌を詠むため、歌の肥やしにいたします。 「スキ」「フォロー」「サポート」時のお礼メッセージでも一部、歌を詠んでいます。