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【短編小説】弓張の月 第2話(全8話)

第2話 自分らしさって?

「この先って、久志(きゅうし)高校じゃない?」
「由美、よく知ってるね」
 これも絵里奈の口癖。みんな知っていることなのに「よく知ってるね」と確認をする。
「みんな知ってるよ。常識だよ」
 いつもと同じように言葉を返す私。

 高校に入って、何度か久志高校には来た。去年は絵里奈に連れられて文化祭にも来た。そのことさえ絵里奈は忘れているのか。絵里奈の能天気さにはあきてれるが、私はそこが好き。
 実は中学生の時も久志高校には来ている。あれは中学3年生の夏、進路選択の時、いくつかの高校に見学へいった。その中の1つが久志高校だった。小田原駅で降りて、急な階段状の坂道を登りきったところに高校が建っていた。ここの高校に通うには、毎日、100段以上もあるこの緩やかな坂道を登らないといけないのか、と思ったことを思いだす。毎日100段、それを3年間。卒業するまでに何段のぼることになるのか。信じられない、とつまらぬことを考えていた。あれからもう3年以上が過ぎた。

 季節外れのクリームソーダ色した空が坂の上に見える。絵里奈の張り切りようからすると、この階段を登りきるとそこには弾けるようなわくわくするものがあるように思える。
「何をぼーっと考えてるのよ。普段、運動しないから、このくらいの階段で息を切らしてしまうんだよ」
 そう言う絵里奈の額にも汗がにじんでいるのがわかる。
「ねぇ、絵里奈。いつも一人で帰って、いつもこの階段を登って、久志高校に来ていたの?」
「まぁね。推しがいるからね」
「おしって何?」
 私の疑問に答える様子もなく、黙々と階段を登っていく絵里奈の後ろ姿を見ながら、私も言葉なく階段を登っていく。後ろから、「いち、に、いち、に」と掛け声が聞こえてきた。振り向くと駆け足でこの階段を登っていく集団があった。短パンに白いポロシャツ。背中にはKYUSIと青色のゴシック体で印刷されている。「Uが1つたらないんじゃない?」と息を切らしながら絵里奈に声をかける。
「あのユニフォームはテニス部かな。きゅうしって、誤解しやすいよね」と笑いながら返事をした。さりげない会話を楽しめるのも絵里奈だからだ。
「ねぇ、由美ってまだ去年の彼のことを考えてるの」
 突然、真面目な声で聞いてきた。
「たまにね。ラインを使う時とかかな」
「もうそろそろ、消したら。きっとブロックをされているんじゃないの。だから既読にならないんだよ。去年の夏からだよ。ラインのトークルームを削除しちゃいな。スッキリするよ」
 返事ができなかった。私もそう思うけど、いつか既読になるかもしれないというかすかな思いがあった。
「由美、自分らしく生きた方がいいよ。人に振り回されないで、自分らしくね」
 自分らしくという言葉が、心の中で引っかかった。自分らしくってなんだろう。今まで、自分らしくなかったのかな。確かに、彼の機嫌をとっていた時もあったけど。
「まあ、いいよ。忘れちゃうことだよ。嫌わたってことだよ」
「遠慮とか、気配りとか、優しさとかないのか、もう少し優しく言ってくれないのかな」
 そういったものの、これが絵里奈の優しさだと分かっている。
「由美、言っておくけど、好きになることも嫌いになることも、付き合うことも別れることも、みんな勇気がいるものだよ。勇気がなければ、流されるだけ。自分らしさを見失うからね」
 何も言えなかった。
「余計なお世話かもしれないけど、由美は日記帳を真っ赤にするほど、すべてを失ったみたいに思っていたんだよね。前にそんな話を聞かせてもらったけど、すべてを失ってなんかいないから。ここに私がちゃんといるでしょう」
 ドキッとした。高校3年になって、初めて一緒のクラスになった絵里奈、いろんなことを話せる友達。愚痴も言える、遠慮ない言葉で言い返してくれる。その絵里奈がこんなことを言ってくれるとは思わなかった。
 今夜、ラインのトークルームを削除すると決めた。赤く染まった2023年8月16日から書いていない日記帳も処分しようと決めた。私は一人じゃない。すべてを失ったりしていない。絵里奈がいるんだから。

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