大きな玉ねぎの下で(14)
今、起きていることが10年前と同じように感じた。いや、今起きていることは10年前に戻って起きていることなのかもしれない。
「わかった。中華だね。お店の名前は、えーと」
「思い出さなくても場所はちゃんと覚えているから大丈夫」
僕たちは少し早く走り出していた。握り合っていた手に汗をかいているのがわかった。
「あった。このお店だ」
亜紀の弾んだ声がすずらん通りに響いた。どこから見ても中華料理店とわかる真っ赤に塗られている入り口だった。その前に僕たちは立った。
亜紀の手が僕の手を強く握ったのがわかった。入り口には「揚子江菜館」と書かれてあった。間違いなくこのお店だ。
亜紀が僕の背中を押した。これも10年前と同じだ。僕に先に入ってという合図だ。
「いらっしゃいませ。お二人ですか」
「はい」
店員の方は僕たちの顔をじっと見た後に、店内を見渡し、座るテーブルを伝えた。
「奥のテーブルにどうぞ」
店内には丸テーブルと四角いテーブルがあった。僕たちが勧められたテーブルは四角いテーブル、しかも10年前と同じテーブルだった。亜紀と目を合わせた。
僕たちの心が10年前に戻ったと思った瞬間から、空気も見えるものもすべてが10年前と同じになっていた。亜紀が僕を壁側に座るように目で合図をした。そうだ、あの時も僕が奥に座ったのだ。
メニューを広げた。このお店は亜紀が見ていた雑誌に「冷やし中華発祥の店」と紹介されていたのだ。亜紀は「発祥」という文字だけで、僕をここに連れて来てくれたのだ。
「たくちゃんは冷やし中華?」
「今は3月だろ。今日は他のものを食べるよ」
「今日はいいの?冷やし中華、聞いてみる?」
ふと会話が止まった。お互いに「今日は」という言葉を出していた。10年ぶりの再会なのに昨日のように思い出していたのだ。亜紀もそのことに気づき、くすっと笑った。
亜紀が冷やし中華を進めるのは10年前にこの席で一緒に食べた時と同じものにしたかったのかもしれない。僕は戸惑っていた。このまま10年前に戻りたい。でも亜紀は結婚をして子どももいる。10年前と同じにはできないだろうと。
「俺は、これにする。上海焼きそばね」
「たくちゃん、すごいのを選んだね。それって、作家の池波正太郎さんも食べていたらしいよ。さすがだね。たくちゃんは珍しいものをいつも選んでいたからね。野生の感かな。じゃ、私も同じのにするね」
「そうなの、どうして知っているの?」
「だって10年前に調べたもの。あ、言っちゃった」
亜紀は照れるように舌をちょこっと出し、話を止めた。そうだったのか。雑誌で冷やし中華発祥の店と紹介され、この店に連れてきてくれた亜紀。でもこの店のことをいろいろ調べていたんだ。
「亜紀、ありがとう」
僕は思わず言葉に出していた。
「たくちゃん、ありがとう」
亜紀も僕に言葉を返した。どうして今、亜紀が僕にありがとうと言うのだ。
「亜紀どうしたの?」
「だって、10年前に言えなかった『ありがとう』を今、言ったの」
「何のこと?」
「私のために、たくちゃんは授業が終わってからたこ焼き屋に行って、汗を流して、いっぱいたこ焼きを焼いて、閉店まで働いて、私のためにバイトしていたんだよね」
亜紀の目が赤くなっていた。店員さんが来た。二人の会話中に声をかけることが申し訳なさそうに小さな声で僕たちの顔を覗き込みながら注文を聞いた。
「お決まりですか?え、どうかしましたか?」
亜紀の目があまりにも真っ赤だったので店員さんがびっくりしたのだ。
「上海焼きそばを2つお願いします」
僕は、慌てて、早口で店員に注文した。店員さんは注文を聞くと、すぐに向きを変えた。「お飲物は?」と聞くこともできないほど、その場にいてはいけない雰囲気を感じたのだろう。向きを変えてから立ち止まり注文用紙に「上海焼きそば 2」と書いているようだった。
「亜紀、知っていたのか。やっぱりあの時、偶然にたこ焼き屋に来たんじゃないんだな」
「うん、なかなか会えなかったし、友達から『たくちゃんに似ている人が毎日遅くまでたこ焼きを焼いているよ』って聞いて、それで、私、ドキドキしながらもお店に行ったの。遠くから見ていたんだけど、声が聞きたくなって、偶然通りかかったふりをして。たくちゃん、私のために、10年前のことだけど、10年分のありがとうって言わせてね」
僕は周りのものが何も見えなくなった。今、この世界には亜紀と二人しかいないと思った。
言葉が出なかった。亜紀は10年間、ずっとこのことを心の奥で思っていたのだろうか。たこ焼き屋のバイト代で買った亜紀への誕生日プレゼントは、今はどこにあるのだろうか。亜紀が「一生、このネックレスは付けているからね」と言ってくれたネックレス。でも今は、亜紀の「10年分のありがとう」が嬉しい。
(「10年分のありがとう」、二人はずっとお互いのことを忘れることはなかったのです。 次回へ続く)
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