家庭不和、いじめ、過食、肥満、産後うつ… 拗らせた日々から、身体も心も”はずむ”人生へ
「次は、私だ」
なんとなく見ていたテレビで、産後の芸能人が亡くなったニュースがふと目に留まりました。「あ、次に死ぬのは私だ」と思ったことを鮮明に覚えています。
第一子を出産して2〜3年の私は、診断こそ受けなかったものの産後うつのような状態でした。
夫は仕事熱心な人で、帰宅するのはいつも深夜。
実母には、できる限り頼りたくない。
ママ友もほとんどおらず、「今日も誰とも話さなかったな」と、典型的な”孤育て”の日々を過ごしていました。
ああ、今私が死んでも、誰にも気づいてもらえないんだろうな。
自宅のリビングにバタリと倒れ、ひとり死んだふりをしたことがあります。
まだ幼く無邪気な我が子に、
バシバシ顔を叩かれてすぐに生き還りましたが。笑
半分ふざけつつ、半分本気で。
孤独という現実を、身をもって感じとる実験でした。
あの頃は、私の人生こんなもん……と諦めきっていました。
きっとこれからの人生、歳をとるごとに色々なことを諦め、
口を開けば愚痴をこぼすようになっちゃうんだろうな。
そんな暗い未来しか、思い描くことができなかったんです。
しかしどうでしょう。
48歳になったいま、出会う方々が口にする私の印象は決まって
“いつも笑顔で楽しそうで、元気いっぱいの聖子さん”
あの頃の私のことを、想像すらできない人がほとんどです。
私の人生がこんなにも変わったのはなぜか?
それは、2つの大切な出会いに恵まれたから。
1つは「体力メンテナンス」との出会い。
体力メンテナンスとは、バランスボールに座ってポンポンッとはずむ有酸素運動で細胞の仕組みを活かし、身体と心を両面から整えるセルフケアメソッド。産後ケアやデトックスなどの多様な切り口で、お子さまからお年寄りまで4,000人以上の生徒さんとご一緒させていただきました。
たった数名から始まった活動でしたが、認定講師は1,000人以上にまで増え、全国各地から海外にまで広がる大きな組織へと成長しました。
もう1つは「川原卓巳さん」との出会いです。
川原卓巳さんは、片づけコンサルタントの「こんまり」こと近藤麻理恵さんのパートナー。こんまりさんの片づけメソッドを、日本だけでなく世界へ届けるという偉業を成し遂げた仕掛け人でもあります。
私は今、Takumi Inc.のコアメンバーとして卓巳さんとご一緒させていただいています。
人は変われる。何歳からでも。
このnoteでは私の半生を振り返りながら、
何かを諦めそうになっているあなたへ
ほんの少しの勇気をお届けできたらと思っています。
怒られないように嫌われないように生きる、笑えない日々
私は、熊本県で生まれ愛知県で育ちました。
寡黙で頑固な典型的な九州男児の父と、
大地主で政治家家系の、いわゆる良家で生まれ育った母。
仕事に情熱を注ぎ、家庭を顧みない父はほとんど家にいませんでした。そのため母は、実家から遠く離れた地で頼れる人もなく、私と弟の世話を一身に引き受けていました。
第一子の私は厳しく育てられ、褒められた記憶はありません。
私の悩みの種は、ずっと”親との関係性”でした。
母は学歴を重要視し、プライドが高く、世間体をとても気にする人。母自身、お家柄や時代背景もあり、とても厳しく育てられたのだと思います。
そして、たまに顔を合わせる父は、本気で怒らせるとアザになるほど手をあげる人でした。だから私はとにかく怒られないように、機嫌を損ねないようにと、自室で息を潜め閉じこもっていました。
今となっては、不器用な両親なりに愛情があったことは理解していますし、私と弟をちゃんと育てようと奮闘してくれていたことに感謝しています。
でも当時の私は、本音で会話できる人はおらず、親の価値観でつくられたフレームの中に押し込まれた「鉄の箱入り娘」でした。
そして小学校2年生の時には、転校をきっかけに学校でいじめに遭うようになりました。仲間に入れてもらえなかったり、歩いているだけで落ち葉やゴミを投げつけられたり。
“とにかく両親に怒られないように生きる”
“学校では嫌われないように過ごす”
これが、幼い私が狭い世界で生き延びていくために自分に課したミッションでした。
「黙って早く食べなさい」から生まれた「私なんて」の呪い
成長してからも、母との関係はよくなることはありませんでした。
私がどんどん太り始め立派な肥満児になったのは、小学校4年生の頃。
「黙って早く食べなさい」
そう言い聞かせられて育った私にとって、食事は“黙ってかきこむもの”。
怒られないように嫌われないように生きる息苦しさも相まって、私はどんどん過食になっていきました。
生クリームをボウルいっぱい泡立てて食べたり、ポテトチップスを毎日1袋たいらげたり。
気づいたら、体重はどんどん増えていきました。
保健室の先生に呼び出され、「太り過ぎ。食べたものを全部記録して提出しなさい」と言われ、管理されるほど。
屈託のない笑顔を振り撒くスラっとした同級生を目にする度、「私とは違う。ズルい」と、羨ましさを通り越して妬みひがむ日々。
「どうせ私なんて」
と、日に日に自分の体型も性格も大嫌いになっていきました。
その後も太っては痩せてを幾度も繰り返し、体型コンプレックスは呪いのように強くなる一方。
誰かと比べては劣等感を感じ、友人といても心から楽しく過ごすことができないまま、学生時代は過ぎ去っていきました。
"鉄の箱から抜け出す"という私の選択、そして訪れた試練
大学卒業後に入社した不動産系の会社で、夫と出会い、結婚を決めました。
夫はとてもポジティブでおおらかな性格。ネガティブで卑屈な私とは正反対の人で、ずっと出られなかった鉄の箱から連れ出してくれたように感じました。
“ここからやっと、自分の人生を歩んでいける!”
そう思ったのも束の間、思わぬ試練が訪れました。
30歳の時 3日かけて出産した長女。
おむつかぶれが本当にひどく、おしりがドロドロにただれてしまったのです。
痛かったでしょうし、痒みもひどかったことでしょう。生まれたばかりの娘は、昼も夜も叫ぶように泣き続け、長時間眠ることができませんでした。
「どうしたらよくなるんだろう...」
ドラッグストアに並ぶオムツやお尻拭きを片っ端から試し、何かいい方法はないかとネットで答えを探しまわりましたが、娘のおむつかぶれは悪化する一方。
「大変な思いをして、大変なものを産んでしまった」
「私は上手に育ててあげることができないダメな母親だ」
泣きじゃくる娘の横で、何度もそう思いました。
子育てを楽しいと感じられず、どうにかラクになりたくて「早く大きくなって」と思わずにはいられなかった。そんな胸のうちを誰かに話したかったけど、ひどい母親だと言われそうで、誰にも相談できませんでした。
悩み葛藤し続け、迎えた娘の1カ月検診。
子どもを預け廊下で待っていると、看護師さんの声が聞こえてきたのです。
「うわー、この子おむつかぶれひどい。かわいそう」
その何気ない一言に、人目を気にする余裕もなく涙が溢れ、止められませんでした。
そんな私を救ってくれたのは、イギリス人のママ友。陣痛に悶絶しながら歩いた廊下で、すれ違いざまに声をかけてくれた人生はじめてのママ友です。彼女は私に、可愛くて機能的なイギリスの布おむつを教えてくれました。そして、人工的につくられたものではなく、できるだけ自然に近い素材や食べ物を選んで暮らす魅力を教えてくれたのです。
藁をもすがる思いで試してみると、赤くただれていた娘のお尻が、次第に良くなっていくではありませんか。
娘と私に、はじめてゆっくり眠れる夜が訪れました。
15万円から始まった小さな挑戦
それから、多くの時間を彼女と過ごすようになりました。
当時まだ海外のベビーグッズが簡単に手に入らない時代。2人で15万円ずつ出資をして、輸入ベビーグッズ専門のオンラインショップを始めました。
私たちが扱っていたのは、布おむつに抱っこ紐、スリーピングバッグ、バイオ洗剤、布ナプキンなど。
勢いで始めましたが、海外商品の取扱いに関する知識はおろか、経営について右も左もわかりません。お互いに小さい赤ちゃんがいたので、運営は育児の合間に無理なくできる程度。
手探りで一歩ずつ進んでいきました。
コストを抑えるため、商品説明の翻訳や撮影、チラシやHPのデザイン、すべてが自作です。ネットショップの運営に関わるデータ管理やHPのコーディングなどは、社会人時代に独学で学んだ経験が役に立ちました。
売り上げはほとんど経営資金に消え、大した収入にはなりません。
今思えば、起業というよりは部活動のようなものです。
それでも「ちゃんと仕事をしている」と、社会との繋がりを感じられることが、心を満たしてくれました。
「自分たちだけで、人の役に立つ仕事をやり遂げた」
この起業経験は、その後に訪れるあらゆる場面で、私の背中を押してくれる出来事です。
「変わりたい」一心で参加したダンスサークルでの運命の出会い
33歳の時、私は第二子となる長男を授かりました。
第二子妊娠時、私の体重は過去最高をたたき出し、152センチにして65キロ。
さらに夫婦関係も悪化。
温厚なはずの夫と、殴り合いの喧嘩をするほどに。ストレスから円形脱毛もできました。
漠然と「このままじゃだめだ。変わらなきゃ」という気持ちを抱えていたそのとき、ふと見つけたのが、産後女性が子連れで集まるHIPHOPダンスサークル「サンゴガールズ」でした。
ダンス経験などまったくありません。しかし、「変わりたい」という気持ちと楽しそうな雰囲気に、気がつくと申し込みを済ませていました。
ダンスサークルに通ってみると、なんで今まで踊ってなかったんだろう!?と思ってしまうほどダンスに夢中になっていきました。母親になってはじめて、自分らしくいられる居心地のいい場所を見つけた!という喜びを感じていました。
そして同時に、キラキラママ★プロジェクトというプロダクションスタッフとして、Web構築や代表プロデューサーのアシスタント業務に携わらせていただくようにもなりました。
私はこのダンスサークルとキラキラママ★プロジェクトで、人生を変える出会いに恵まれたのです。
はずむバランスボールがもたらしてくれた
人生の転機
この時出会った人が、のちの一般社団法人体力メンテナンス協会代表理事となる玲奈さん。玲奈さんこそが、私の人生に大きな影響を与えてくれたひとり目の恩人です。
言いたいことはスパッと言い、自分の信念に反することはしない。
相手の顔色を伺い続けている私とは正反対の、太陽のような人。
彼女は、はずむバランスボールとセルフケアで身体を整え、ワークで心を整えていく「産後ケア」のクラスを開講していました。それはダンスサークルでも、プロジェクト関係のママたちの間でも評判のレッスンで、第二子出産後にボロボロになっていた私は、即参加を決めました。
玲奈さんのメソッドは、産後に大きくバランスを崩してしまった身体と心の両方をメンテナンスできる、まさに当時の私が必要としていたもの。
楽しくてはずんでいただけなのに、レッスンに通うにつれみるみるうちに身体が変わり、妊娠前の体重からマイナス8キロ。
体の変化と共に、思考もポジティブに変わっていきました。
さらに壊れかけていた夫との関係性や、子どもとの関係にも変化が生まれたのです。
そしてある日、レッスンで玲奈さんが言ったこの言葉が、私の胸に突き刺さりました。
「自分が変われば、世界が変わる」
そうか。私でも、人生を変えられるかもしれないんだ!
自分のうちに眠る可能性に光が差したような、自分がずっと欲しかった言葉をもらえたような気持ちでした。
全6回のレッスンが終わる頃には、私の中に確信めいた気持ちが生まれていました。
「日本中に、このメソッドを必要としている人がいる」
「完コピ」から始まったインストラクターへの道
勢い余った私は、当時養成講座も開講していなかった玲奈さんに、「インストラクターになりたいです!」と伝えました。そこから、体力メンテナンスのルーツである産後ケアについて、一から学ぶ日々が始まりました。
しかし私は、もともと人前で話すのが苦手なタイプ。なにせ怒られないように嫌われないようにと、静かに隅っこにいるような人生でしたから。
思うように話すことも、インストラクターとしての身体づくりもできず、私はどんどん落ちこぼれていきました。
それでもなんとか食らいつき、受けた認定試験の結果は「追試」。やはり指摘されたのは、プロとしての身体づくりの甘さでした。
追試に向けて練習する日々のなか、どんなに練習してもうまくいかない自分の至らなさが悔しくて。スタジオからの帰り道は決まって、泣きながら歩いていました。
そして迎えた追試の日。
あんなに必死に練習してこの日に賭けていたのに、私は緊張とストレスから嘔吐。試験時間にスタジオへ辿り着けず、試験を終えたみんなが帰宅したガランとしたスタジオで、最悪の状態のまま個別受験させてもらいました。
質疑応答の回答も間違えたし、今回もダメかもしれない。
そう諦めていた追試の結果は、なんと合格。
初めてレッスンを受けた日から2年。
やっと私は正式に活動を始められることになりました。
腹をくくった全国行脚の日々
当時は今よりさらに、バランスボールの認知度が低い時代。
お金も人脈もコネも経験も何もなかった私は、数少ないツテをたどったり新規開拓したりしながら、いろいろな場所でレッスンを開講しました。
私のように一人で悩んでしまっているママたちが、
ひとりでも多く当たり前に「産後ケア」に出会えますように。
想いとバランスボールを抱え、自宅から車で行ける限りの地域でレッスンを開講しました。
バランスボールをいくつも車に詰め込み、スタジオからスタジオへ周る日々。子育てしながら週5日、午前から夕方まで毎日3レッスン。できる限りレッスンを詰め込み活動していました。
そして、移動とレッスンの合間には、必ずブログを更新しました。
体型コンプレックスの塊だった自分が産後ケアに出会い、いかに変わることができたか。「毎日5記事更新する!」と心に決め、5年間欠かさず発信し続けました。
そのおかげもあり、受講者は年々増えていきました。
やがて沖縄や大阪など、日本各地からレッスンを希望する声が届き始め、いつしか全国を飛び回るように。忙しいながらも活動できる喜びと充実感を感じていました。
理事就任、そして広がる「体力メンテナンス」の輪
インストラクターとして正式に駆け出した頃に、玲奈さんが協会を設立しました。
体力メンテナンスは、バランスを崩した身体と心を立て直す方法として、どんな人にとっても効果的です。そして身体と心を動かすエネルギー「体力」にフォーカスし、細胞の仕組みを活かすメソッドだからこそ、その場しのぎの対処療法ではなく、人生が変わるほどの変化が起こるのです。
「体力メンテナンス」をキーワードに、教育機関や高齢者施設、企業様、医療機関など、エクササイズだけでなく、セルフケアの座学講演活動など、受講者に合わせた方法で、みなさまのお力になれる活動をさせていただいています。
そして「聖子先生のおかげで、人生変わりました!」というありがたい声も多くいただくようになりました。しかし、せっかくリクエストをいただいても応えられないことが増えてきただけでなく、代講をお願いできる講師もいないので、常に倒れられない緊張感を感じていました。もっとも体力メンテナンスのお陰で、体調を崩すことはありませんでしたが。
もっと体力メンテナンスを必要な人へ必要な時に届けるためには、どうしたらいいんだろう。
このままでは限界が見えてる。
私と同じように教えられる人を育てたい。
その思いから、インストラクターを養成できる講座を次々と開講しました。
バランスボールではずむスキルの習得や身体づくり、解剖学など身体と心の仕組みを学ぶ座学、セルフケアのレクチャー習得……これらを修了して「バランスボールインストラクター」「体力指導士」「産後指導士」の資格取得ができるようにしたのです。
そして2020年、協会理事就任とともに、「デトックスプランナー」のメソッドを構築。ネットショップ時代に取り扱っていたオーガニックや添加物・化学物質についての学びと実践を、身体・脳や心・食・環境から多角的にアプローチできるようにし、資格取得養成講座もリリースしました。産後ケアと出会ってから、10年目のことでした。
2024年現在、資格発行数は3,000を越え、20代から60代の幅広い世代の講師陣が、それぞれの魅力を活かしながら講師活動をしています。
世界的プロデューサー川原卓巳さんとの出会い
理事として第一線で活動していた2022年、人生を変える新たな出会いがもうひとつありました。
冒頭でもご紹介した、川原卓巳さんとの出会いです。
SNSや音声配信で、卓巳さんのことは知っていました。そして発信を見聞きするたび、卓己さんの言葉に深く共感し惹かれていったのです。
「考えていることが、すごく似てる人だな」
もっと彼の思考に触れ学びたくなり、当時卓巳さんが主宰していた「プロデューサーズ」というオンラインサロンに入りました。
体力メンテナンスをより広く届けるための学びを得たいという気持ちと、
"「理事の聖子先生」ではなく、何者でもない野上聖子としていられる場所で挑戦してみたい"
そんな思いもありました。これまでの講師としてのキャリアが通用しない場に身を置いた時、自分の能力をどう活かせるのか。挑戦のような思いもあったのです。
そして、2022年11月。
いつものようにレッスンが終わり、ふとサロンのSNSグループを開くと、【#ゆる募】という投稿が目に留まりました。そこには、緊急ミーティングが今すぐに開催されると書いてあり、「何をするんだろう?ちょっと覗いてみようかな」程度の軽い気持ちで参加してみたのです。
しかし詳細を聞いてみると……イベント開催までたったの10日。会場は未定。集客もこれから。予約受付ページはおろかクリエイティブも何もない!確保してあるのは、登壇者のスケジュールだけという、なんとも無茶振りな内容。
ハードな条件にも関わらず「なんか面白そう!」と、ついワクワクしてしまった私は、あれよあれよという間に運営メンバーに入ることに。
開催まで時間がないので、運営メンバーはお互いに自己紹介する間もありません。しかしそれが、私にとっては好都合でした。理事ではなく、何者でもない野上聖子として参加することができたのですから。
「チーム運営」とか「役割決め」とか、そんなことを気にする余裕もなく、できる人ができることをする、とてもシンプルな体制で進んでいきました。私が担当したのはクリエイティブ制作や予約ページの準備、当日の受付管理や卓巳さんのサポート。さらには人生ではじめて作った動画がオープニング映像として巨大スクリーンで放映されるという、なんともエキサイトな体験までさせていただきました。
理事ではない、もうひとつの私らしい生き方へ
イベントの準備期間はわずか10日間でしたが、当日は700名を超える多くの方にご参加いただき、大盛況のうちに幕を閉じることができました。
準備に奔走していた私に、卓巳さんは「バランスボールではずむだけの人じゃなかったんだね!笑」と声をかけてくれました。
ネットショップ運営や講師活動で自然と身についたスキルが、まったく違う場所で、それも尊敬する方に評価してもらえた。驚きと喜びが入り混じった思いでした。
そして卓巳さんは、こう続けました。
「これから日本の活動も大きく展開していきたいから、対応できるチームをつくりたい。聖子ちゃん、一緒にどう?」
あこがれの人の力になれることがひたすら嬉しかった。
そして同時に、これから何が起きるんだろう!というワクワクが広がりました。
卓巳さんとのお仕事は、とても新鮮でした。
出産前に勤めていた一般企業とも、講師業とも違う。
Takumi Inc.は、正に「遊ぶように仕事する」メンバーの集まりです。
チームミーティングで笑わない日はありません。
私が得意とするパートは、クリエイティブ制作、イベントや講座のディレクション、卓巳さんの出張サポートなど。
卓巳さんがつくるチームで働くようになり、気づいたことがあります。それは、自分を変えようと努力したり、我慢したりしなくても、ありのままの私の価値を認め、大切に扱ってくれる人がいるということです。
私は自分を「器用貧乏」だと思っていましたが、私の周りには、それを「私らしい才能」だと言って喜んでくれる人たちがいるのです。 これは、息苦しい鉄の箱から長い間出られなかった私に起きた、想像もできない大きな変化です。
Takumi Inc.に参加してよかった点がもう一つあります。
それは、日本中に素敵なご縁ができたこと。
卓巳さんの出張に同行して出会う方々は、熱いパッションを持ち、遊ぶように仕事をして、楽しんでいる人ばかり。
旅は海外派の私でしたが、各地で話を聞くたびに、日本の魅力を知り大好きになっていく。生産者の顔やストーリーを知って食べる食材は格別だし、日本中に会いたい人たちや、訪ねたい場所が増えていく喜びを感じられるようになりました。
卓巳さんと一緒に過ごすうちに、世界が、みるみるうちに広がっていきました。
「私は私にできることを」じぶんサイズで挑む、世界平和へのひとしずく
自分の命の意味を深く考えたことがあります。
2人の子どもが大きくなった今、自分の残りの命をどう使うべきだろうか。
そう考えたとき、私は自分の命を「人類が前に進むために」「世界中の人に笑顔になってもらうために」使いたいと思ったのです。
大きな言葉を使えば、私は「世界平和」を願っているのです。
私は、体力メンテナンスを伝える仕事が「世界平和」に繋がると信じています。
自分の身体と心の取説を知ると、自分に優しく生きられる。
自分に優しくできる人は、他人に対しても同じように優しくなれる。
他人に優しくなれるなら、世界からいじめや争いは減るはず。
講師を育てる時にも
「私たちは世界を平和に導くアベンジャーズだよ!」と伝えています。
活動の真の価値を理解し、体力メンテナンスを伝えられる誇りを感じてほしいからです。
Takumi Inc.のお仕事も同じです。
卓巳さんが見据えているのは、世界平和。大きな影響力を持つ卓巳さんを支えることで、世界平和にぐっと近づくことができる。
本気でそう思うのです。
理事・講師とエグゼクティブディレクター。
まったく違う仕事をしているように見えるかもしれませんが、私がその先に見据えている未来は一つ。
“世界中の人が笑って過ごせる、平和な世界をつくること”
私は、私という存在の小ささも、影響力の乏しさも理解しています。
だからこそ、
私は私にできることで、
世界平和への一歩を進めることに命を使いたいのです。
人は、何歳からでも、人生を変えることができる
「私なんて」と卑屈に生きてきた何者でもない私が、世界平和を願うようになるなんて、いったい誰が想像できたでしょう。
自分が変われば、世界も変わる。
私たちは身体も心も環境も、そして人生も、自分で選んで変えることができる。「そんなのできない」と思っているのであれば、それはあなた自身がそう決めつけているだけなんです。
だから、これを読んでくださったみなさんに改めて伝えたいんです。
何歳からだって、自分の人生を切り拓くことができる。
自分の可能性をもっと信じて、一歩を踏み出してみて欲しいのです。
そのために大切なのは、身体を整えることから始めること。
身体が変わると自然に心も変わり、行動が変わっていきます。
そして、自分の可能性を信じ、身を置く環境を大切に選ぶこと。
はじめの一歩が怖くても、1ミリずつでもいいから諦めずに日々進み続ければ、きっと理想の人生に近づけます。
年齢のせい、お金のせい、誰かのせいにして諦めるなんてもったいないこと、もう終わりにしませんか?
私も、これから自分の可能性を信じ続けていきます。
だから、どうかあなたも、あなたの可能性を諦めないでほしいんです。
同じ地球で、同じ時を生きる仲間として、身体も心もはずむ人生を一緒に満喫しましょう!
このnoteに込めた私のエールが、どうかあなたに届きますように。
一般社団法人体力メンテナンス協会 理事
Takumi Inc. エグゼクティブディレクター
野上聖子