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卒業式での意外な言葉とマザー・テレサ
4年間の算命学の研究過程を終え、学校を卒業したのは昨年の3月のことだった。その数ヶ月後、私は試験をパスして「歳位(奥義を極めた者)」となり、免許皆伝となった後も再び学校に入り直して、上位過程に進んでいる。在籍中のコースも最後まで続けると全部で4年間あり、先日には新年度のお知らせをもらって引き続き学びを続けることにした。春で通学6年になる。50歳になっても勉強したいことは山ほどあり、研究のゴールを告げるチェッカーフラッグは、私の目にはまだ見えていない。
とはいえ、昨年の授業の最後に勉強の一区切りとして開かれた卒業式の時には、大変に不安な気持ちに襲われた記憶が蘇る。今から思えば「卒業」とは研究過程の終わりを意味しているだけで、続く専門過程はまだまだあったのだけれど、その時は「ここでもう独り立ちかぁ」と拙速に力んでしまい、40代をほぼ丸々使って費やした学びを、果たして何か形にできるのだろうか、と沈み込んだ。
卒業式で生徒に向けた校長先生からの祝辞は、意外なものだった。
「謙虚に生きるために、算命学を使ってください」
正直、もっと実務的な話をされると思っていた。そうか。ここで私はただ、独立するための鑑定技法を学んでいたのではなかったのだ。宿命を謙虚に受け止め、人が自分らしい生涯を全うするための「生き方」を学んでいたのだった。
まるで忘れかけた時計のアラームが突然鳴って予定を知らせてくれたように、自分が人生をかけて成し遂げたいミッションへの気づきをリマインドされたような気がした。ふとその時私の胸に浮かんだのは、なぜかカトリック系私立学校に通っていた小学生の時に授業で習ったマザー・テレサの言葉だった。
「自分が削れるほど、人に与えなさい」。
「わたしたちが貧しい人に与えるものは全て、与えるために持っている」「心のすべてを差し出しなさい」
振り返れば、彼女の言葉はいつも「与える」という言葉に満ちていた。小学生の私は、正直なところ「そこまではできる人なんていないだろう」と内心高をくくっていたし、大人になってもマザーの言うように行動する人間では全くなかった。人に与えるだけでなく、自分もまた満たされたかった。私にはそうした、極めて利己的な一面がある。
一方、小学生時代に知ったマザーは、どんな時も貧者や病者のために働く人の印象だった。今の私が、もしマザーにならうなら。モノではなく、算命学で得た”学び”をシェアすることで、自分も充実させながら、誰かをほんの少しでも幸せにできるのだろうか。学べば学ぶほど、自分も成長し、たくさんの人の多様な悩みに応えられるようになるのだろうか。
思いがけない言葉に触発され、身勝手な私は算命学を通してマザーのように祝福された人に、できるものなら近づきたいと願っていた。掘り下げた泉は果てしなく、誰かの元へ水を送り、渇きを癒すことができるのかな?
カトリックの世界では、自分の存在をしばしば「道具」に例えて説明することがある。マザーも自らを「鉛筆」に例え、謙虚に行いを重ねることを説くこんな言葉を残している。
わたしという鉛筆は、それ※に対して何もすることはありません。
鉛筆は、ただ使っていただくことを
許されているだけなのですから
「算命学を通して、今生かされている自然の宿命を伝え、大人も子供も一人一人の個性を輝せながら美しく調和する社会を作りたい」
「世界の人にも伝わる表現と解釈を自分なりに工夫し、学びをグローバルにシェアして皆で心豊かに暮らしたい」
大きな志すぎて表明するのも気恥ずかしいけれど、今の私の思いはここにある。そのためのInstagramでの花を通じた表現であり、自然の美しい瞬間を切り取った描写であり、鑑定であり、ここに書き記す文章でもあるのだ。
人に使っていただく道具として、学びを続けながら、人も自分も幸せに生きる。校長の言葉とマザーテレサの言葉、自分の思いが、心の中でトリニティのように煌めいた。
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