紀伊國屋書店の文庫売場、またはケッチャム王子の異常な愛情
本を買うとき、7割方は紀伊國屋書店新宿本店で済ませます。近場にあること、品ぞろえが充実していること、このふたつが主な理由です。
本といっても新刊と既刊の両方があるわけで、とくに後者にかんして、紀伊國屋は頼りがいがある。数年前に出た本が当然のように棚に並んでいるので、わざわざ取り寄せる必要がありません。その場で買って、すぐ読める。このシンプルさがよいのです。
「Amazonつかえばもっと楽じゃん」という見方があることも承知していますが、書店にかぎらず、リアルな場所の空気感というのはけっこう大事で、つい最近も大学生くらいの男女が「こんなに岩波がそろっている店があるなんて!」と岩波文庫の棚の前で感動していたものですから(「おまえら本屋でデートするんじゃねえ!」などとはもちろん1ミリたりとも思わず)すてきな光景だなあと感心しつつ眺めておりました。
場の空気ということでいうと、岩波文庫の裏手に、官能小説の雄・フランス書院文庫のコーナーがつつましく鎮座しているのも、なかなかの妙味を感じます。
思い出したのでついでに記しておきましょう。俗にいう〝腐女子〟の方々の思考類型を把握できたのも紀伊國屋のおかげです。
以前、ジュンク堂書店が新宿に進出したことがあり、『仁義なき戦い』的な観点からすると、長年、紀伊國屋組が仕切ってきた縄張りに、西からやってきた愚連隊ジュンク堂が、まずは池袋を制覇し、つづいて新宿に「われ、どかんかい!」といわんばかりに乗り込んできたわけで、どうしても「すわ、書店戦争勃発か!」とドンパチ展開を期待してしまいます。
しかし、そんな野蛮なとらえかたではなく、腐女神学にもとづいた静謐なコスモロジーをあてはめるとどうなるか。すなわち、ジュンク堂(攻)×紀伊國屋(受)という単純な図式が成立する!
こうしたモデル化の技法をわたくしは腐女子から教わりました。あらゆるものを擬人化し、すべてのものごとを攻/受の対称性で捉えるまなざし。それは、ユークリッド幾何学に対する非ユークリッド幾何学、ニュートン力学に対する量子力学のように、それまでの前提を一挙にくつがえす認識論的転換をもたらしてくれたのです(当社比)。
なお、文化論的にいえば、攻/受という枠組みは、和菓子や借景、歌舞伎や紋様など、日本の美意識を支えてきた〝見立てる〟という作法と相通じるところがあるようにも感じられ、研究者による精緻な分析が待たれます。……いや、あるいはそのうち『人生に必要な知恵はすべて腐女子の見立てから学んだ』とかいうビジネス書でも企画しようかしらん。
さて、腐女子といえば美青年、という雑な連想で話をむりやりにつないでいくと、紀伊國屋書店にしゅっとした面立ちの店員がおり、無駄のない身のこなしに加え、万全を極めた商品知識(客にとってもっとも重要なポイントがこれ)に、迅速丁寧な対応という、まったくもって非の打ち所のない方がいらっしゃるのですが、あるときこの青年の前掛けに妙ちきりんな缶バッジがあることに気がつきました。
そこに書かれていたのは、タワーレコードのキャッチコピー「NO MUSIC, NO LIFE.」(音楽なしじゃ生きていけない)をもじった「NO KETCHUM, NO LIFE.」(ケッチャムがなけりゃ生きていけない)。その瞬間、前々から気になっていたちいさな疑問が氷解したのです。あ、こいつだったのか、と。
ジャック・ケッチャムというアメリカのホラー作家がおります。いっそカルト作家とよんだほうが妥当かもしれませんが、扶桑社が誇る翻訳ものメインの文庫レーベル〈扶桑社ミステリー〉から、なぜか続々と邦訳が刊行され、本邦では熱狂的な読者を獲得したようです。かくいうわたくしも、ある時期、熱心に追いかけておりました。
ホラーの帝王スティーヴン・キングが絶賛し、「わたしたちのような作家にとってケッチャムは一種のヒーローだ」とまで言わしめた最高傑作『隣の家の少女』は、しかしながら、最低最悪、最凶にして最狂の鬼畜小説であり、ひとことでまとめるなら、美少女がひたすら虐待され蹂躙されるだけの、ただただ陰惨な話でしかなく、物語としてのカタルシスなどひとかけらもありません。
にもかかわらず、扇情性をあおるポルノグラフィとはとうてい思えず──ポルノだとしたら、過剰なまでにげんなりする描写をおこなう理由がありませんし、そもそもポルノ特有の〝被虐の美学〟、つまりエロスを欠いています──あえていうなら、ケッチャムは20世紀アメリカが生みだしたマルキ・ド・サドであるとでも評価しなければ収拾がつきません。
もうひとつの代表作は『オフシーズン』。こちらは人肉食がモチーフの問題作で……と、この時点で、もはや紹介する気が失せるのですが、ようするに猟奇的な設定とグロテスクな描写を得意とする書き手なのです、ケッチャムは。
「いっそカルト作家とよんだほうが妥当かもしれませんが」と書いたのもそういうことで、中篇集『閉店時間』の訳者あとがきには「本国アメリカでは、ホラー専門の小出版社から少部数で本が出るだけの状態がながらく続いていた」とあり、つまりは読者を選ぶ作家だということです。
扶桑社の編集者は、ケッチャムの魅力について、こう記しています。
たしかに、ケッチャムの小説は、残虐で、無慈悲で、血みどろの描写にあふれています。しかし、ケッチャム・ファンの多くは、単なる恐怖、単なる残虐性、単なるイヤミスの枠を超えたところで、彼の露悪的ではあっても繊細な、「暴力への感受性」それ自体に惹きつけられているのではないでしょうか。
そんな特異な作家ケッチャムを推しまくる奇特な店が、何を隠そう紀伊國屋書店新宿本店なのですが、店頭で「これでもか!」とばかりにケッチャム愛を披瀝しているのが、くだんの美青年なのであります。
わたくし自身、ケッチャム読者だったため、2階の文庫コーナーに足を運ぶたび、いつなんどきでもケッチャム推しの推薦文が掲げられていることに、当初は「おお、ここに同志が!」と思ったものでした。
ときにはひっそりと、ときには大々的に、手を変え品を変え、くどいくらいのアピールをしかけてくる執着ぶりはじつに見事。「ドキドキ♡ケッチャム占い」然り、「ケッチャムと行くアメリカ横断ウルトラ双六」然り、これはケッチャムを愛する変態さんにしかなしえない所業だと確信しつつ、逆に「この店員さん大丈夫なの……?」といささか不安をおぼえたのもたしかで、なんとなく〝キモヲタ〟的な風貌を勝手に想像していたのです。
ところがどっこい、先に記したように、ケッチャム推しのポップを手がけたのはさわやかな好男子であり、さらに後日〝ケッチャム王子〟と呼ばれ、界隈で賞賛を集めていることも判明、自らの不明を恥じたのでした。「重度のケッチャム読者はキモヲタ的な風貌をしているにちがいない」などという思い込みこそ、凡人ゆえの想像力の貧しさを如実に物語っており、キモヲタのみなさんにはここで深くお詫びを申し上げます。
ケッチャムは2018年に亡くなりました。むろんケッチャム王子が黙っているわけがありません。会計カウンターの正面(ここにはたいてい売れ筋の本が並んでいます)にケッチャムコーナーが設けられ、長大な追悼文を物した巨大なパネルが立てかけられたのです。黒い紙に白い文字で書かれた魂の叫び。それはまさに墓標の如し。あいにく全文に目をとおすことはできませんでしたが、墓碑銘のようにおおきくこんなことばが刻まれていました。
万人に好かれる作品は良い。
でもそうじゃない作品の方が、心に残る事もある。
それがケッチャム。
わたくしの推測、というより、ただの邪推ですが、「万人に好かれる作品は良い」というのは、書店員としての節度が書かせた文言にちがいなく、ほんとうは「万人に好かれる作品なんてクソクソクソ! クソ・オブ・ザ・クソ! そうじゃない作品こそ心に残る! ケッチャム万歳! なんで死んじゃったんだよ! このクソ小説家が!」とでも書きたかったのではないでしょうか。くりかえしますが、ただの邪推です。
いずれにせよ、紀伊國屋書店はこうした有能な店員を大切に遇していただきたいと切にお願いする次第です。