読書感想文 ミシェル・フーコー「知の考古学」
ミシェル・フーコー「知の考古学」
(中村雄二郎訳、2006年・新装版、河出書房新社)
昨年来からの読書、やっと読了。じつに難解というか、今まで読んだなかで一番読みにくく、わかりづらい本。一行も頭に入ってきません。悪文の極み。
まず用語が特殊で、聞いたことのない造語が説明なしで出てくる。また既成の単語でも著者独自の意味を持たせているので、やはりその定義を知らないと意味不明。たとえばタイトルになっている「考古学」ですが、これは我々が知っている遺跡発掘みたいなこととはまったく関係ない。著者がこれから編み出そうとしている歴史研究の方法論に、仮にこういう名前が付いてるってことです。とにかく、著者は既成の学問の概念を否定しようとしているので、こういう記述になるのだろう。
否定しようとしているのは学問だけでない。私たちが物事を認識する時に無意識に使っている言語そのものを疑えってことです。つまり分析するというのは今ある前提を疑うことではあるのだが、それを徹底的にやろうというわけで、言語学とか認識論の領域になってくる。つまりヴィトゲンシュタインとか、仏教のナーガールジュナとか、ああいう一番ややこしくて私には歯が立たない、お手上げの分野。
また、これは原理的な枠組みを示そうという本なので、具体的に何に関してどうなんだっていうのか、その具体例がきわめて少ないです。だから何について言おうとしているのか、イメージが全然つかめない。ただ、たまに特定の学問の歴史について言及があるので、そこに関してはかろうじて何を主張しようとしているのか、ぼやっとわかる程度。それにしてもさまざまなジャンルの昔の学者の名前が次々と出てくるのは、いささか衒学的に感じるほど。訳注のおかげで何とか話に付いていけるが、この訳注だけで勉強になるぐらい分量がある。
とはいえ、著者には明確な目標があるわけで、それは歴史における人類の進歩とか、いわゆる「近代」という「大きな物語」の虚構性を暴くということです。そのためあらゆる物事を相対化していく。たとえばそれぞれの学問分野で基礎的な定説とされていることが、じつは歴史的に形成されてきた人為的な言説にすぎないということを強調する。
前に友人から「今の歴史研究は人類の進歩という考え方をしないんだよ」という話を聞かされて、「それじゃあ歴史観の意味なんて無いみたいなことじゃないか」と思ったが、その震源はフーコーらにあるのかも。自分は学校教育を通じても、その後に社会人になってからの勉強でも、いわゆる進歩史観にどっぷり浸かってきた世代。すなわち人類の知能の進化に伴い、科学・医学が発達し、生産力と人口が高まり、社会構造も必然的な流れに沿って、より高度に複雑化していく。漠然としているが、こんな感じの話を疑ったことはない。
もう少し突っ込んで言うと、科学的な認識が普及すると宗教のような迷信は消えていくとか、自由な経済発展が進むと中産階級が台頭して必然的に民主化が進む、みたいな説がありますよね。ところが今のイスラム教徒の国はハイテク技術を使いこなしているし、中国はいくら経済発展しても一党独裁の体制が変わらない。こういう世界情勢では人類の進化の歴史法則みたいな考え方は旗色が悪い。自分も進歩って概念には疑いを抱かずにはいられないのは確かだ。
これの原著が書かれた1969年頃に何が議論されていたかという前提がわからないため、さらに取っつきづらいのだが、訳者の解説が少しは足がかりにはなる。文学だとアンチロマン(ヌーヴォーロマン)や言語実験など、既存のヒューマニズムを解体しようとする過激な試みが盛んに行われていた時代でもあり、その成果が反映されていることは著者によってもほのめかされているが、この本はそういう「時代精神」や「同時代性」みたいなフレームを安易に用いることを厳しく戒めてもいる。また1968年の学生反乱を受けて、マルクスの革命理論と歴史観を再検証するというのが隠れたテーマでもあり、はっきりいって既成のマルクス主義を完全に否定していますね。
じゃあ、この本が音楽のフリー・インプロヴィゼーションと何の関係があるか、という私個人の独特な問題意識からすると、やはり大いに関係する。つまり、ここでは言語(あるいは「意味」)をどれだけ最小の構成要素にまで細かく分けられるか、ということが扱われているのだが、フリー・インプロヴィゼーションで行われていたのは音楽をどれだけ最小の構成要素にまで分解できるか、ということでもあるからだ。この最小単位がどういう作用で結びついたり、別のものを排除したりしながら、より大きな塊を構成し、さらにその塊が何かしらの同一性を保持しながらも、刻々と新たな要素を取り入れて変わっていくのか。この現象は学問の学説の変遷なんかと似ているし、その根底にある言語そのものがそうだ。
ただそのことを何かしらの大いなる理念、イデアに向かっての進化と捉えるか。単なる無常な転換、有為転変と捉えるか。著者は後者の立場に立って、ミクロなレベルでなるべく厳密な観察を行おうと主張しているようだ。脱中心化、って言葉は見覚えがある。理念によって見えなくされている細部というものはあるわけで。
われわれは物質という実体を反映して言葉があると思っているが、物事を知覚する上ですでに言葉が介在しているわけで、人間が言葉抜きで直に世界を知覚できるかどうか。言葉を獲得する以前の「無垢な」状態で世界を見ることは人間にはできないし、もしそれを感覚できたとしても他人には伝達不可能ですよね。しかし、その言語がどのように運用されているか、というコードの動き方を解析できれば、コードを絶対的なものと思ってそれに囚われている状態を相対化することはできる。脱コード化とはそういうことかもしれない。音楽についてもしかり。われわれが無自覚に「特定の音楽ジャンルのルール(音楽理論)」と考えているものは、すべて事後的に、人為的に「発明」されたものでしかない。その「ルール」が何なのかを知るには、一度その「外」に出てみる必要がある。普遍の音楽言語みたいものが自然の中に隠されていて、それを誰かが「解読」したのではなく、すべては歴史を通じて形成されてきたもの、そう考えるほうが自然だろう。何しろ、この本によれば、われわれが外界の「もの」を知覚する、その情報処理のしかた自体が「社会の中で歴史的に形成されてきたもの」だというわけだから。