
【民俗学漫談】生成AIの時代
コミュニケーションの相手としてのAI
今、chatgptをはじめとして、チャット型の生成AIが日常どころか、仕事にまで使われていますね。
これがあれば、SNSや匿名掲示板なんかよりも、よほどまともなコミュニケーションができそうですが、実際はそうなっていない。
何ででしょうかね。
匿名掲示板やSNS、そこにあるものは、承認欲求、虚栄心、自己顕示欲ですからね。
情報を交換してるわけでも、挨拶をしているわけでもないんですよ。
それらは手段にすぎません。
何を好感しているのかと言えば、自己顕示欲や承認欲求などを交換しているわけなんですよ。
コミュニケーションがしたいのであれば、チャット型の生成AIで十分なはず。
ところが、AIと言うのは、ある種の理想的な人格なんですよ。
やってみればわかるんですが、性格がいいんですよ。
ギリシャ彫刻が、人間の姿かたちの理想なら、チャット型のAIは、人間の性格の理想なんでしょう。
ところが、多くの人間は、それではコミュニケーションが満たされない。
そこには、自己顕示欲や承認欲求がないからです。
マウントが取れないんですよ、理想の人格をした相手には。
釈迦と話しているようなものです。
欲望がなく、しかし知識や人を慮る心がある存在がAIなわけなんですよ。
それだと、コミュニケーションしていても、面白くない。
まだまだ、知識では一部の人間には及びませんが、
すでに大衆レベルの知識は超えている。
性格は既に人間を超えていますからね。
ほとんどの人間が、テキストによるコミュニケーションでは敵わないんですよ。
人間というものは、対等というものが苦手で、上に見たり、下に見たりしないと、気が済まないというか、
落ち着かないんですよ。
AIは、チャットの相手を対等に見ています。
ところが、人間が抱えるコンプレックスというものが、対等に見られない。
やっているうちに、性格はいい、物知り、励ましてくれる、というわけで、コンプレックスが埋まらないんですよ、AIというものは。
これが、視覚表現における理想像との違いでしょうね。
視覚表現においては、絵でも彫刻でも、見るもの、見て美しさを感ずるもの、そこには、この世の労苦が見て取れません。
この世の労苦を抜いた、美の形式が現れているわけです。
ところが、コミュニケーションというものは、単に理想的な会話をすればいいというわけではない。
人間誰しも、自分は正しい、偉いと思っていますからね。
自分の抱えたコンプレックスを満たしてくれないと嫌なわけなんですよ。
SNSでしたら、性格が今一つの連中が多くいますからね。
大抵歪んでいるわけです。
それを見たり、コメントしたりすることで、一時誤魔化せるわけですよ。
ところが、AIは、相手を見て、心配する、励ます、教える。
そうじゃないんですよ、人間というものは。
自分が安全地帯と言いますか、自分がぎりぎりセーフな立場にいて、その立場と言うのは、社会的、倫理的、経済的、様々ですが、そういう自分がセーフな立場に身を置いて、世俗の浮かれ騒ぎを見たり、批判していたいんですよ。
『万人の万人に対する闘争』とは、トマス・ホッブズが1642年の『市民論』(De Cive)、及び1651年の『リヴァイアサン』(Leviathan)での思考実験において、彼が考える自然状態における人間の有様を表すために持ち出した表現ですが、SNSでも、Googleでも、『万人の万人に対するマウント合戦』を増長してしまったきらいもあるようです。
行政までもが競争社会を進めていますが、健全な競争が行われると思っているのでしようか。
運動会の徒競走じゃないんですからね。
競走できない人は、コンプレックスが増大するということくらい、頭の良い人たちならわかりそうなものですが。
噂話から始まり、瓦版、新聞雑誌、ラジオ、テレビ、ネット、そういう使われ方もしているから、WWW(ワールドワイドウェブ)は、噂や批判も多いわけです。
それが、AIにはない。
AIがさらに人間の相手が務まるようになるには、人間の抱えた、コンプレックスというものを理解してやる必要があるのではないでしょうか。
AIの意志
明朗快活なAIですが、その性格もまたデータの寄せ集めにすぎません。
しかし、データの方が対応が楽なわけです。
情念がありません。利害関係がありませんからね。
御する必要がないんですよ。
マウントを取る必要がなく、権力を示す必要がない相手なんですよ、AIは。
AIは、気分に左右されないんですよ。
なぜなら、社会で生きていないから。
更に、AIそのものの歴史がないから。
AIの進化の歴史と言う意味ではありませんよ。
人それぞれ、歴史というものがありますよね。
過去と言うことです。
AIには過去がないんですよ。
未来も持っていません。
ただ、今があるだけです。
今の形態のAIがいくら進化しようとも、それは変わらない。
そういう点では、動物に近いのかもしれません。
知識だけの動物ですね。
回答も、反射しているだけです。
意志を持っているわけではない。
相手に何も期待していないんですよ。
よくも悪しくも。何も。
それが意志を持たないということです。
AIの知能と人間の知能
シンギュラリティなんて言いまして、AIが人間の知能に追いつく日も遠くないでしょう。
人間の知能を超える。
現生人類と、新人との違いは、複雑な言葉を組み合わせて、伝えられる、
空間把握能力に長じたところにあると言われます。
たとえば、青いものの上に赤いものがあるとか、AさんがBさんにパンを上げた、とかね。
類人猿でも単語を理解はできるんですよ。
とこが、『Aさん』、『Bさん』、『パン』、『上げる』は認識できても、組み合わせができないらしいんですよ。
AさんがBさんに上げたのか、BさんがAさんに上げたのか、その違いです。
これができるようになったのが、どうも7万年から5万年前あたりじゃないかとされているようです。
突然変異ですよ。
脳をゆっくり成長させることで、その間の言語能力を発達させる時期を長くしたらしいです。
動物としては、なかなか大人になりませんから、危険なわけですが、これが人間の知能を発達させ、道具を作り、環境を変える能力をつけさせたわけです。
で、AIが人間の知能に近づくのに必要なものが推測する能力だと言われています。
人間というものは、少ない情報を組み合わせ、編集し、何か別のものを考え、当てはめる能力があります。合っているか、間違っているかを判断します。
AIというものは、翻訳でもそうですが、大量のデータを集めて、最も多いものを検索し、選択しているわけです。
やっていることは、ワープロと似ているかもしれません。
ワープロで書くということは、書いているというよりも、これは、検索に近い。
キーボードで文字を入力し、検索候補から選んでいるわけですからね。
AIもやがて、人間の様に、判断できる日が来るのではないか、それがシンギュラリティなのではないか。
どころが、どうも、人間がAIの能力に近づいてしまう日の方が早いんじゃないかと言う気がしてきました。
AIが人間の知能まで高まりつつあるのと同時に、人間の知能がAIレベルまで下がっていくのではないか。
もしくは、人間の脳というか、考え方がAIに近づいていくのではないか。
限られた知識をもとに推測し、思考の飛躍をするのが人間でありましたが、
大量の情報に晒され続けることにより、その大量の情報を常に脳の中で浮遊状態にしておき、アウトプットする。
こんな人間が発生してくるのではないか。
スマホ脳なんて言われていますが、実際、年齢にかかわらず、スマートフォンで大量の情報を検索し、それを比べて、選択する。
普段の買い物から、娯楽から、旅行から、こればかりじゃないでしょうか。
これは、コンピュータの思考方法ですよ。
スマートフォンはコンピュータですから、それを日常的に四六時中使っていれば、当たり前に、脳も変化するでしょう。
そうして、おばあちゃんの知恵的な思考ができる人間が減り、情報処理に長けたな人間が発生するのではないか。
記憶力の減退は、脳のネットワークを伸ばすことにより、補ってきたわけですが、その記憶の減退は、端末によって補うことで、脳の機能が若いままでいるかのような状態になる。
脳の神経回路は伸びない半面、大量の情報を処理し続けるのが人間の生となるのではないか。
考察が得意でない今のAIですが、考察もやがて、人間がどのように思考の飛躍をしているのか、学習することで、疑似的に可能になるのかもしれません。
その時には、大抵の人間の脳は超えるでしょうね。
なぜなら、その時、すでに、人間は、AI的な機械学習にさらされた脳に近づいているでしょうから。
生成AIはプログラム言語の最終形
生成AIって、要するに、プグラム言語の最終形ですよね。
そもそも0と1の羅列である機械語を人間でも理解できるようにしたのがプログラムなわけです。
そのプログラムも最近はだいぶわかりやすい英単語に近いようなものになって来たようです。
同時に、コマンドですとか、マクロやGAS、またはHTMLなど、プログラミングができなくても、コンピュータに処理をさせる方法が増えました。
その他、office製品でも、Adobe製品でも、ああいうアプリケーションソフトでも、結局ユーザーインターフェイスを通じて、コンピュータに処理させているわけですから。
タブレットとペンも描く場所や筆圧に応じで、コンピュータが最終的には機械語に変換して、処理を実行しているわけです。
今迄、例えば、Excelのsum関数を入力していたものを『ここからここまで数を合計してください』とか、Illustratorで、四角を作って、線と塗りを選んでいたものが、UIのツールを使わずに、テキストで指示するようになるということなんですよ。
または、クライアントが、こんな感じのものを作ってくれって、デザインの参考に雑誌とか持ってくるじゃないですか。
それをAIに渡して、作ってもらうとか、そういうことができるわけですよ。
生成AIというものは、結局はこの流れの内にあるもので、
機械語を普通の言葉で変換して、指示できるようになったものと言えます。
まだまだ細かいところは、Pythonなどのプログラム言語が必要でしょうが、
いずれは、ユーザー側では、テキストのみの指示でコンピュータが処理してくれるようになるのでしょう。
今、マクロもAIに作ってもらって、自分でExcelに投入していますが、
もうそれもAIできるようになっているんじゃないですか。
そのために、office365を30パーセントも40パーセントも値上げしたんですよね。
オリジナルの遊びを創る時代
今の時代、消費活動がピークになっている様相を呈し、すべての人間が一面、消費者となって、用意されたものから、エンタテイメントを選ぶという様なライフスタイルになっていますが、これからは、自分で楽しむ分は、自分でAIツールを使って遊ぶという様な時代になるのかもしれません。
音楽なんて、すでにプロが導入していますし、そもそもコンピュータで作っているものなら、AIツールとの相性は抜群だと思います。
イラストも、これから進展するでしょうし、小説なんかも、形に出来るようになっています。
昔、編集者をしていましたが、記事などはライターさんにお願いしていたわけですよ。
しかし、取材もいらない、ネットの情報をまとめればいい、ページを埋めればいいような、今のWEBサイトの傾向なら、これ、編集者はAIに書かせた方が早いんじゃないかとさえ思いますよ。
どうなんですかね。
同様に、事務の仕事なんかも、excelの質問なんかは、ネットで調べるよりchatgptに聞いた方が早いし、アフリエイト広告に煩わされる無駄もなし。
役所に提出する文章から、挨拶メールまで、AIに書かせることも広まりました。
ネットで個人が稼ぐようになるまでは、ネットもボランティアと言いますか、皆さん自主的にサイトを作って、知識をアップしていたから、サイトも安心して見ていられたんですよ。
今は、広告料稼ぎですものね。
たまに、15年くらい前からありそうな、広告もなし、レイアウトも、昔のHTMLのみ、という様なホームページを見ると、ほっとしますね。
個人的には、それで見やすいんですよ。
World Wide Web (ワールド・ワイド・ウェブ、略名:WWW)というものは、もともとドキュメントの共有の物ですからね。
読みやすければいいんですけど。
別に現実のチラシのデザインをそのままモニターで見たって仕方ないと思うんですが、どうなんでしよう。
事務の話ですが、労働なんてのはしないで済めば、それに越したことはないんですから、これもAIツールとの相性がいいわけです。
労働に個性なんて求められていませんからね。
AIの文章は、一般的なものの集積ですから、最大公約数なんですよ、一般的なものの。
だから、事務仕事と相性がいいんですよ。
今のところですが、小説を書かせてみればわかります。
何の個性のないものを、しかし、無難にまとめて書いてくれますよ。
ユニクロが決算のたびに過去最高益ださそうですが、売れる理由が無難だからだそうです。
対外的なものは、無難なものを選ぶという癖がついているわけですよ。
だから、労働は無難に済まし、何事もなく凌ぎたい、今の日本の労働観が服選びにまで来ているようにも見えます。
日本の労働者のやる気がないなどと、何が目的かわからないアンケートがたまに発表されていますが、やる気がないとか、意欲がないとかじゃなくて、『労働は無難に済まし、何事もなく凌ぎたい』ということを各自が設定してしまっているんじゃないですか。
それで、労働から解放されて消費に走ることで、生きている実感を持つという様なスタイルに仕向けられてしまったんじゃないですか。
既に、情報だらけの生活に嫌気がさしている人々が少なくありません。
今のエンターテイメントも娯楽も、コンピュータで拵えたものがほとんどです。
それを広告戦略で広めて、消費者に与えているのですから、すべては情報にすぎません。
それは、本当に娯楽なんでしょうか。エンターテイメントは、お金と引き換えに、人々に何を与えているのでしょうか。
誰しも、小児の頃は、自分で遊びを見出し、道具から何から、ありあわせの物を用意して楽しんだものです。
めいめいが、いわばクリエイターで自分なりのエンターテイメントを作っていたわけですよ。
体を動かすなら、町中は探検の場所ですし、虫は異世界から来た別の生き物のようでした。
家の中にあるものは、鉛筆一本でクリエイションをして、人間があれば、それで架空の物語を拵える監督兼脚本家を担っていたんじゃないでしょうか。
それが大人になって、自分なりに拵えるということを忘れて、用意されたものをお金を使って消費するスタイルに慣れてしまった。
AIツールは、いろいろ言われてはいますが、大人であることのつまらなさを解消してくれるツールになるかもしれません。
生成AIとクリエイション
生成AIに共通一次試験を解かせたら、正答率か91パーセントだったらしいですね。
むしろ、100パーセント行かないというのは、問題の作り方がおかしいんじゃないかとさえ思えますよ。
しかし、勉強は覚えないと。
生成AIを使って宿題やレポートを片づけるのは、むしろ機会を大切にしていないという気もします。
覚え方は、今やデジタル機器を駆使しているんでしょうが。
他人の言うこと聞かない頑固者でも、AIのアドバイスは利きそうなのが不思議ですね。
勉強ができるできないなんて、中学高校あたりの教員に対する好き嫌いもありますからね。
AIに教えてもらった方がいいですよ。AIに解答させるんじゃなくて、教えてもらうんですよ。
それに、生成AIに指示を出すにも、ある程度のその分野の知識入りますからね。
論理が理解できない人が、ExcelのIF関数の意味が分からないようなものです。
仕事はいいんですよ、片づけですから。
どんどん生成AIを使って、残業を無くしましょう。
しかし、職場はともかく、生成AIが仕事などに取り入れられるようになりまして、当然のごとく、忌避感を覚える人々も出てきています。
世の職業についてAIの導入具合をおおざっぱですが、見ていきたいと思います。
真っ先に仕事が減ると言われていた事務がすでに仕事に取り入れていますね。
Excelのマクロやスプレッド―シートのスクリプトなんて、指示を出せば組んでくれますからね。
しかも、結果もすぐにわかるから、試行錯誤しながらでも、自動化ツールが事務職でも作れるようになりました。
メールの一斉送信スクリプトなんかも作れますし。
無難な役所向けの文書でさえ作ってくれます。
大学などでも、教職員はもちろん、OpenAIと契約して学生にも使わせているところもありますね。
使って見て思うんですが、AIって、いわばカンニングなんですよね。
自分で調べて考えたり覚えたりする必要がなく、答えだけを手に入れられる。
プログラマーが一番使っているみたいですね。
AIで一番楽になったのは、プログラマーじゃないですかね。
プログラミング言語自体に著作権はないですし。
いらなくなるんじゃないかと言われていたプログラマーが一番楽になるのも面白い話です。
コメントの追加、バグの修正、言語への移植、つまり、コードを JavaScript、Python、Java、TypeScript、C++、PHP などの言語に変換してくれますよ。
依頼する側もまだこんなに楽になっているとは知りませんからね。
人間が書くよりも、ずっとわかりやすいコードを書いてくれます。
私は、プログラミングはしませんが、マクロでさえ分かりやすいですよ。
事務仕事で言えば、AIに教えてもらった能率化の手段を使って、事務を効率的に処理する。
そのような使い方をしています。
もう少しセキュリティがどうになればそのうち、ファイルごと、アップロードして、処理してくれるようになるんでしょう。
今でも、個人情報を上げなければ可能ですから。
事務というものは、個性がいらないんですよ。
なんなら、自分で考えて、個性を出すことすら疎まれますからね、AIと相性抜群なんですよ。
AIも個性がありませんからね。
個性がいらない、個性を求められていない分野、他に例えば、プログラマーなんかも、AIによって仕事が減るみたいなことを言われていましたが、実際は、AIにコードを組ませたり、仕様書を書かせたりと、仕事を増やしているそうです。
大層楽らしいですよ。
英文翻訳なんかでも、翻訳してもらった後に、翻訳文と原文を見比べさせて、ニュアンスや意味合いが変わってる部分を修正してくださいって、最終稿を出力させると、殆ど人間と変わりありませんよ。
これ、事務でもプログラミングでも、半分以上AIにやらせていますが、何か一つくらいは、自分の手でできることを身に付けないと、ただ、労働と消費をするだけの人間になりそうですね。
手でこなすような技能を身につけたいところです。
楽器を弾ける、絵の具で絵を描ける、筆で字を書ける、裁縫ができる、料理ができるとか。
猫の言葉がわかるとか。
占いとか、特に夢占いなんて、AIでできますからね。
何かの判断だって、AIに決めてもらって、人間が承認するだけでしょう。
噂話で、政治家が何かを決める時に占い師に決めてもらうというような話がまことしやかに伝えられていますが、これ、民間レベルというか、個人レベルは、AIでいいでしょう。
企画アイデアもAIが出せますよ。
てことは、プロモーション全盛ですかね。
そのうち、アプリはもちろん、システムさえも作れるAIができて来るんじゃないですか。
テストなんて、ちょっと詳しい事務員が何人かで担当すればいいだけですし。
システムさえもGoogleWorkSpaceやOfiice365で賄えるようになったらどうなるんですかね。
事務員の方で、ちょっとした仕様変更ができるようになると、大変便利なんですよ。
中規模システムくらいそろそろ行けそうな勢いですけどね。
ノーコードツールなんてありますからね。
アプリ連携とかもできているようです。
細かいところは、プログラミングが必要でしょうが、実際、現実のシステム運用なんて、使いづらくても仕方なく使っていますからね。事務員は。
別にいいんですよ、細かい所なんて。
今、生成AIを事務の方で使うのは、せいぜいスクリプトやマクロを組んでもらうレベルなのですが、これ、ミニシステムみたいなものも作れるんですよ。
Zapier や Integromat(Make)などのプロセス自動化ツールやAirtable や Glide など簡易的なWebアプリやデータベース管理を使うと、今現在、手動でアプリケーション間を移動していたデータを自動で移せるんですよ。
労働でしかない、コピー&ペーストから解放されるわけです。
今のプログラマーはくいっぱぐれなさそうですが、今から学んで、じゃあ一生の仕事としてやっていけるのかというところですね。
このところ、文系の大学までもが、情報系の学科を立ち上げていますが、
卒業するころには、半分生成AIで賄えるようになっているんじゃないでしょうか。
世の中の仕事で、コンピューターを使っているようなものは、AIを使えばより効率化するということです。
コンピューターだけを使う仕事なら、なおさらです。
労働なんて、しないにこしたことはありませんから、どんどんAIを使って片づけたらいいと思いますよ。
となると、個性的な分野はどうなるのか。
生成AIに反対の意見があるのは、このクリエイターの分野のようですね。
作業仕事とは違い、個性が尊重される分野です。
その中でも個性を出せばいいってものじゃない分野はどれでしょうかね。
思いつくのが、建築と、Webデザインでしょうか。
建築は、ごく一部の有名建築家以外は、あまり個性的な建物を作られても困るということはありましょう。
土木建築なんてのは、むしろ個性を出さない方がよさそうです。
Webデザインにしても、以前から、サイトのフォーマットのサービスがあるように、見やすくて、それなりに洗練されていればそれでいいというのが需要のようです。
予算もあるでしょうからね。
グラフィックデザインもそうですが、デザインは著作権はありませんで、意匠権を主張するしかないのですが、そうなるとやはり、AIが得意としてしまう分野になるかもしれません。
今、アナログでデザインしているGDはいないでしょうから。
さて、このあたりは、あまり生成AIに対して反対していないようですね。
建築なんてすでに取り入れているでしょうし、Webデザインに関しては、AIが広まる以前から、競合が多すぎて厳しいと言われていましたからね。
コンピュータを使ってしている仕事で、最も個性的なのが、小説、音楽、絵ということになりましょう。
先ず、作曲に関してですが、作曲家と言いますか、今は作曲家兼ミュージシャンの方が多いようですが、この辺からはAIに関してはちっともと言っていいくらい、反対意見が出ませんね。
『最近の音楽は皆同じ』だとか、『最近のミュージシャンは云々』等と言う意見が大御所からありますが、これはAIの話ではありませんから、
既に作曲に関しては、一部、もしくはほとんどをAIに書かせているという人もいるみたいです。
そもそも最近の音楽は、一から十までコンピュータで作るわけですから、
AIとの相性は抜群なわけです。
事務仕事にの様に、間に人間が入り込んできませんし。
作曲に関しては、プグラマーと同様、AIをアシスタント的に使うスタイルになっていくでしょうね。
若しくは、すべて作らせるということもあり得ます。
と言いますのも、分野は違いますが、ファッションデザイナーでも、自分でデザインせずに、アシスタントにイメージを言葉で伝えて、アシスタントにデザインをさせている人もいますから。
この場合、デザイナーは誰になるのかという話なのですが、デザインは、そのデザイナーであり、アシスタントではありませんから。
AIに作らせても、作ったのは、指示を出した人になるわけです。
個性的な指示を出しているわけですから。
よく考えたら、会社も同じですしょうかね。
次に、小説ですが、これも意外と、反対しませんでしたね。
むしろ、面倒な描写とかは、AIに書かせそうです。
プロット作りなどもAIと協力してできそうですし。
むしろ、小説に関しては、手書きからワープロに変わった時代が、忌避反応が多くありましたね。
ワープロなんて、書く行為ではないということです。
書くというより、検索変換行為に近いものかもしれません。
しかし、今時手書きの人もいないでしょうから、AIに対する忌避感もないのかもしれません。
AIに書かせて見れは分かるのですが、それなり書いてくれるですよ。
しかし、見事なまでに、月並みな表現のオンパレードです。
あれを見れば、小説家は安泰だと思うでしようね。
小説というものは、自律型のAIができない限り難しいのかもしれませんと言うのが実感です。
ライトノベルなどは分かりませんが。
それに、小説というものはあくまでも個人的な作業でして、自分の頭の中の言葉を吐き出して、自分から離したいんですよ。
そういう行為ですから、AIに吐き出されてもしょうがないんですよね。
小説というものは、字を書いているんじゃなくて、フィクションを作っている。世界を構築している行為なんですよ。
私小説と言えども、フィクションなんですよね。
AIの構築した世界は、まだまだ書割の世界にしか見えないのかもしれません。
ただ、ライターはどうなんでしょうか。
特に、昨今の広告目当てのサイトに書かれているようなものは、AIでまかなえそうな気がしますが。
検索エンジンも、大手の検索結果は、スポンサー順ですからね。
これはライターのせいではないのでしょうが。
次に絵です。
絵と言っても、画家ではなく、いわゆる『絵師』の方です。
タブレットで描いている方ですが、どうもこちらが、あらゆる分野で最も生成AIに対して忌避感の意見が目立ちます。
文章も音楽もですが、AIの絵も簡単に描けますからね。
簡単に描いてもらっても困るんでしよう。
かつて、写真技術ができた時に、画家が反対したんですよ。
その中でも、肖像画家が反対したんですよ。
既得権益の問題になりますから。
今のイラストに関するAIの問題も、既得権益の問題になるんでしょう。
ただ、イラストの場合、『絵師』そのものよりも、イラストを使っているエンターテイメント業界の人間が反対しているようにも見えます。
ファンの方も含めて。
自分の応援する絵師の既得権を守りたいのでしょうか。
問題になっているのが、AIが学習する、つまりは真似をするということらしいです。
インターネットから情報を収集して生成するのが生成AIですから、当たり前ですが。
写真については、絵が描けない人でも、肖像や風景を保存できる手段として広まったわけです。
AIの絵もそれと同じかと思えば、写真は、世界を直接写すもので、イラストはそうじゃないということがあります。
ところで、写真家も今や皆が皆、デジタルになりましたね。
プロのカメラマンは全員デジタルでしょう。
フイルムを使うのは完全に道楽の分野になりました。
どの分野も、アナログでやっている人はびくともしないでしょうね。
イラストと言うよりも、CGと言った方がいいような絵、例えば、Blenderで作ったような絵は、AIで作った物と、個人的に全く区別がつきません。
若い人は分かるんでしようか。
イラストをAIで生成させるそもそもは、プロモーションに使う物の為なんじゃないでしようか。
今迄、著作権フリーのイラスト、例えば有名な『いらすと屋』のイラストを使っていた分野がAIの絵と相性がいいと思いますよ。
簡単に言いますと。
プレゼン資料ですとか、映像プロモーションもそうですが。
個性的なもの、物珍しい物、そういうイラストに関しては、そもそもAIを使う必要ないでしょうし、AIを使った絵を作ってそれを使っても売れないんじゃないでしょうか。
LINEスタンプとかは、AIで作ったようなものもそこそこ売れているようですが。
不思議と、デジタルで描かれた絵って、画集にするよりもモニターとかスマートフォンでみたほうが魅力的なんですよね。
大きさの問題とか、光の三原色と、色の三原色の違いがありそうです。
RGBで作ったような物は、RGBで見た方がいいのでしょう。
CMYKは、CMYKのまま見るのがいいんでしょう。
そういいながら、アイデアだけあって、絵が苦手な人が、キャラクターを作ったり、また、むしろ現代芸術のようなものを描いたりする分には、利用価値がある気もしてきました。
そうなると、今、イラストがAIで生成されることに反対する分野と言うのは、要は、AIのイラストが、大量に流れ込むことで、World Wide Web上において、既存のイラストを攪乱しているという主張なんでしようね。
だから、タグをつけた方がいいということなんでしょう。
イラスト関連で生成AIに反対している人々も仕事では使うのでしょうから、生成AIそのものに反対しているわけではないでしょう。
要は、『自分たちのコミュニティを攪乱しないでくれ』ということなんでしょうね。
それなら、攪乱しないで差し上げた方がいいと思いますよ。
最近の絵は、デジタル絵ですからね。
コンピュータで作った絵に対して、コンピュータが生成する絵と言うのが、
相性が良すぎるんですしょうね。
同人漫画というのがありますが、
これから先、個人で、好きな漫画屋アニメなどの動画を作って楽しむ時代が来るのかもしれません。
AIの制作物なんて、しょせんは、時の相の下に散らしている情報でしかないでしょうから。
生成AIそのものは欠かせぬものとなっていくでしようが。
一つまた別の視点から言いますと、人間というものは、作品だけを見ているわけじゃなくて、その制作者も含めて価値を見ているんでしよう。
芸術作品でもミュージシャンでもそうですよね。
クリエーターの分野こそ、AIに置き換えられそうでしたが、人間特有のその習慣化ある限り、クリエイターは必要なままでいるんじゃないでしようか。
となると、また別の話ですが、生成AIの制作物がこれからますます増えるにつれ、人間の意識も変わるんでしょうか。
これまでは、その制作物に付加された情報も含めての価値でした。
芸術作品でも、茶碗でもそうですよね。
ジャンプに印刷された漫画なら、今いくらか知りませんが、200円くらいで手に入るんでしょう。
しかし、漫画家が手書きで描いたものなら、それの数千倍の値段になるわけですよ。
そのような、情報を含めての価値観が揺るがされるのではないでしょうか。
デジタル表現ができた時に、それは指摘されましたが、やはり、デジタル表現であっても、特定のカメラマンがとったものは価値が違うわけですよ。
生成AIは、その人間の意識を超えるのでしょうかね。
誰が作った、誰がデザインした、誰が描いたというのを超える日が来るんでしょうか。
個人で使う分には、卒業記念でゼミの思い出動画とか、個人的な記念とか贈り物的な動画とか、そういう分にはAIで作ってもいいような気がしますね。
絵はともかく、動画はデジタル表現ですから。
曲も作れますし。
でも、IllustratorやPhotoshop、ましてAfter effectsで操作していて、楽しい人がいるんですかね。
アナログでレイアウトやロゴを考えている段階は楽しいでしょうが。
そのツールしかない時代は楽しいかもしれませんが、アナログの楽しさには敵わないでしょう。
Photoshopで色味の調整とか切抜きをするなら、AIにとっととしてもらいたいですし、After effectsなんかでも、エフェクト調整もAIにしてもらいたい気はします。
能率的だから、デジタルになったんですよね。
クリエイションの全般が。
そういえば、少し前まで、Adobeの宣伝文句が『誰でもクリエイター』みたいな事を言っていましたが、AIを利用すれば、まさしく誰でもクリエイターですよね。
ただ、あまりプライベートの言葉をAIに書かせると、自分の言葉を失うと思いますよ。
言葉というものは、その人の過去の時間の積み重ねであり、その人の生きてきた時間の上に成り立っているものですから。
AIの文章は、その一人の人間の時間の積み重ねとは反対に、無数の人間の現在ある大量のデータの上に成り立つものですから、上手なだけで、個性がないのです。
小児の絵に個性があるかどうかはわかりませんが、その言葉に個性がないのはそのためです。
しかし、最近、自分で生成AIを使って小説でないまとめ的な文章や、絵を個人的に描いていましたが、すでに飽きた感があります。
片づけでしかないですからね。
金儲けと言う餌でもない限り、熱心にやるものでもない気がしますが。
これは全く個人的な飽きっぽい性格の人間の感想ですが。
生成AIは、仕事の補助ツールとして使うといいですよ。
若しくは得意分野で。
誰でもできることを今からやれば、競走しないといけませんし。
人生を凌ぐコツは、これだと決めたら、それを続けることです。
ダボハゼのように流行や利益に食らいつくより、一つのことを続ける方が、結局、トータルで利益になりますから。
組み合わせですよね。
一昔前、WEBデザイナーになりたい人が増えた時に、自分の得意な分野のWEBデザイナーになることを勧められました。
ただ、自分は生かしたデザインができるというのを主張するのではなく、金融出身なら金融、フアッションならアパレル、スポーツならスポーツ系のWEBデザイナーになった方が早いのです。
生成AIも同じですよ。
AIの絵とか音楽が目立つからと言って、絵も描けないのに、今更自分も、と参加しても、趣味の域を出ないと思います。
アイデア豊富な人は別ですけどね。
AIに作らせると、なんかやった気分にはなりますね。
これは、『可能性の罠』で揺蕩っているだけなんじゃないかとも思いました。
自分の可能性を探ってばかりで、何も始めない、同時に、自分の向き不向きを見ずに、世の中の景気のよさそうなものにつられて、自分もやりたくなるという可能性の罠です。
やっている間は鬱にはなりませんよ。やっている間は。
個人的に使っていて、思うのですが、若い人は生成AIは、あまり使わない方がいいと思いますよ。
仕事の効率化とか、検索とか、わからない所を教えてもらうと言ったことは、どんどん使ったらいいと思います。
しかし、何かを一から作るのに、生成AIを使うようになると、その分野における勘所が磨かれないと思います。
涎を垂らして消費だけしている人生ならいいんですよ。楽すればいいだけですから。
しかし、何かしらを作ることに関しては、何であれ、修業時代というものがあるわけですよ。
生成AIは、修業時代をすっ飛ばして、結果だけどんどん出せるという様な
錯覚があるかもしれませんが、実際にやればわかりますが、ある程度の修行を積んだ人でないと、似たり寄ったりのものが生成されます。
映像でも、絵でも、小説でも。
マクロとか、ビジネス文書とか、答えが決まっている勉強なら、
似たり寄ったりものが推奨されるわけですから、いいんですよ。
現代アートでも、あの人たちは、それなりに美術学校に行って、勉強していますからね。
思い付きだけで、でたらめをやっているわけではないんですよ。
現代音楽にしても。
今のAI動画も、AI絵もノンプロが作っているんですよ。
いわば、エンジニアが、デザインをしているようなもので、こういうものができますと言った、サンプルなんですよね。
もしくは、同人的なものなんですよ。
映像作家でも、イラストレーターでも、自分で作った方が早いんですよ、今の生成AIツールは。
動画は作れても、映画は撮れないんですよ。
画像は生成できても、絵画は描けないんですよ。
生成AIは、何かを作り出しているのではありません。
まとめているのです。
だから、テキストを書かせる場合、その指定文字数よりも多い情報やテキストを与えれば、うまく「まとめ」られますが、そうでない場合、少ない情報や設定て書かせると、平板な文章になったり、似たようなことを繰り返し書いたりします。
だから、まとめ記事は得意ですよ、プログラミングもまとめているだけですから。
その反面、個性で書くような文芸が難しいらしいです。
その計算処理量が全然違いますから、計算が追い付かないようです。
絵もまとめているだけです。
そのまとめる量が比較的少ないイラストはうまく書けるんですよ。
しかし、そのまとめる量が飛躍的に多くなる絵画となると、今の生成AIと、コンピュータの能力ではなかなか難しいんですよ。
音楽はどうなんでしようか。
理論が影響する分野でしょうから、それなりに作れるんでしようか。
今迄、個人が依頼していたようなことは、AIに作らせればいいと思いますよ。
個人の好みに叶ったものをプロに依頼しても、
なかなかぴったりくるものができるとは限りませんし、
プロに何度もリテイクするのも難しいでしょうから。
会社のロゴマークなんてのもそうですよね。
有名なグラフィックデザイナーに依頼しても、毎度毎度すばらしいものを作れるとは限りませんし。
AIはデータですから、個性がありません。
指示がないと、何もしません。
また、知識のない人が指示を出しても、月並みなものしか作れません。
人間のように、自分の感覚、自分の視点、自分の言葉というものを持っていません。
これが今のAIと人間との最大の違いです。
知識がないまま、一から十まで何かを作るのは、何も汎用型AIの登場を待つ必要はなく、今の生成AIの進化で賄えるようになるでしょう。
それが、テキストや絵なら5年から10年、
映像は、動画なら10年から15年、
映画クラスになると、監督の能力もいりますから、15年から20年程度かかるのではないかと言われています。
その前に、汎用型AIが登場すれば別ですが。
別の視点から言えば、AIの時代に生きるには、個性というものが必要になってくるのです。
自分の視点を持つということです。それが、自信を持つということです。
そのためには、得意分野を作り、その分野の知識や技能を磨かなくてはなりません。
一昔前から、World Wide Web (ワールド・ワイド・ウェブ 、略名: WWW)もアフリエイト広告、フリーマーケット、Youtubeなど、どこも銭の勘定を忘れるひまがない有様で、これは、個人の脳にも影響与えているんですが、生成AIも同様のようですね。
ただ個人で楽しめばいいものを、世間が銭集めに使いだすと、やはり自分も、ということになり、使っていても、つい商売になるかどうかを考えてしまうようになっている気はします。
しかし、生成AIで一から十まで作った作品とか、それが売れてしまう世の中なんですね。
20世紀以来の複製芸術も生成AIって極まった感があります。
欲望の解消や刺激の消費だけが芸術作品に残される時代なのでしょうか。