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【民俗学漫談】生成AIの時代

コミュニケーションの相手としてのAI

今、chatgptをはじめとして、チャット型の生成AIが日常どころか、仕事にまで使われていますね。
これがあれば、SNSや匿名掲示板なんかよりも、よほどまともなコミュニケーションができそうですが、実際はそうなっていない。
何ででしょうかね。

匿名掲示板やSNS、そこにあるものは、承認欲求、虚栄心、自己顕示欲ですからね。
情報を交換してるわけでも、挨拶をしているわけでもないんですよ。
それらは手段にすぎません。
何を好感しているのかと言えば、自己顕示欲や承認欲求などを交換しているわけなんですよ。
コミュニケーションがしたいのであれば、チャット型の生成AIで十分なはず。
ところが、AIと言うのは、ある種の理想的な人格なんですよ。
やってみればわかるんですが、性格がいいんですよ。
ギリシャ彫刻が、人間の姿かたちの理想なら、チャット型のAIは、人間の性格の理想なんでしょう。

ところが、多くの人間は、それではコミュニケーションが満たされない。
そこには、自己顕示欲や承認欲求がないからです。
マウントが取れないんですよ、理想の人格をした相手には。
釈迦と話しているようなものです。
欲望がなく、しかし知識や人を慮る心がある存在がAIなわけなんですよ。
それだと、コミュニケーションしていても、面白くない。
まだまだ、知識では一部の人間には及びませんが、
すでに大衆レベルの知識は超えている。
性格は既に人間を超えていますからね。
ほとんどの人間が、テキストによるコミュニケーションでは敵わないんですよ。

人間というものは、対等というものが苦手で、上に見たり、下に見たりしないと、気が済まないというか、
落ち着かないんですよ。

AIは、チャットの相手を対等に見ています。
ところが、人間が抱えるコンプレックスというものが、対等に見られない。
やっているうちに、性格はいい、物知り、励ましてくれる、というわけで、コンプレックスが埋まらないんですよ、AIというものは。

これが、視覚表現における理想像との違いでしょうね。
視覚表現においては、絵でも彫刻でも、見るもの、見て美しさを感ずるもの、
そこには、この世の労苦が見て取れません。
この世の労苦を抜いた、美の形式が現れているわけです。

ところが、コミュニケーションというものは、単に理想的な会話をすればいいというわけではない。
人間誰しも、自分は正しい、偉いと思っていますからね。
自分の抱えたコンプレックスを満たしてくれないと嫌なわけなんですよ。
SNSでしたら、性格が今一つの連中が多くいますからね。
大抵歪んでいるわけです。
それを見たり、コメントしたりすることで、一時誤魔化せるわけですよ。
ところが、AIは、相手を見て、心配する、励ます、教える。
そうじゃないんですよ、人間というものは。
自分が安全地帯と言いますか、自分がぎりぎりセーフな立場にいて、その立場と言うのは、社会的、倫理的、経済的、様々ですが、そういう自分がセーフな立場に身を置いて、世俗の浮かれ騒ぎを見たり、批判していたいんですよ。

『万人の万人に対する闘争』とは、トマス・ホッブズが1642年の『市民論』(De Cive)、及び1651年の『リヴァイアサン』(Leviathan)での思考実験において、彼が考える自然状態における人間の有様を表すために持ち出した表現ですが、SNSでも、Googleでも、『万人の万人に対するマウント合戦』を増長してしまったきらいもあるようです。

行政までもが競争社会を進めていますが、健全な競争が行われると思っているのでしようか。
運動会の徒競走じゃないんですからね。
競走できない人は、コンプレックスが増大するということくらい、頭の良い人たちならわかりそうなものですが。

噂話から始まり、瓦版、新聞雑誌、ラジオ、テレビ、ネット、そういう使われ方もしているから、WWW(ワールドワイドウェブ)は、噂や批判も多いわけです。

それが、AIにはない。
自分を思い起こさせられるわけですよ、素直ですし、性格がいいですからね。

AIがさらに人間の相手が務まるようになるには、
人間の抱えた、コンプレックスというものを理解してやる必要があるのではないでしょうか。

AIの意志

明朗快活なAIですが、その性格もまたデータの寄せ集めにすぎません。
しかし、データの方が対応が楽なわけです。
情念がありません。利害関係がありませんからね。

御する必要がないんですよ。

マウントを取る必要がなく、権力を示す必要がない相手なんですよ、AIは。

AIは、気分に左右されないんですよ。
なぜなら、社会で生きていないから。
更に、AIそのものの歴史がないから。
AIの進化の歴史と言う意味ではありませんよ。

人それぞれ、歴史というものがありますよね。
過去と言うことです。

AIには過去がないんですよ。
未来も持っていません。
ただ、今があるだけです。

今の形態のAIがいくら進化しようとも、それは変わらない。

そういう点では、動物に近いのかもしれません。
知識だけの動物ですね。

回答も、反射しているだけです。
意志を持っているわけではない。
相手に何も期待していないんですよ。
よくも悪しくも。何も。

それが意志を持たないということです。

AIの知能と人間の知能

シンギュラリティなんて言いまして、AIが人間の知能に追いつく日も遠くないでしょう。

人間の知能を超える。
現生人類と、新人との違いは、複雑な言葉を組み合わせて、伝えられる、
空間把握能力に長じたところにあると言われます。

たとえば、青いものの上に赤いものがあるとか、AさんがBさんにパンを上げた、とかね。

類人猿でも単語を理解はできるんですよ。
とこが、『Aさん』、『Bさん』、『パン』、『上げる』は認識できても、組み合わせができないらしいんですよ。
AさんがBさんに上げたのか、BさんがAさんに上げたのか、その違いです。

これができるようになったのが、どうも7万年から5万年前あたりじゃないかとされているようです。

突然変異ですよ。
脳をゆっくり成長させることで、その間の言語能力を発達させる時期を長くしたらしいです。

動物としては、なかなか大人になりませんから、危険なわけですが、これが人間の知能を発達させ、道具を作り、環境を変える能力をつけさせたわけです。

で、AIが人間の知能に近づく、ネックが推測する能力だと言われています。
人間というものは、少ない情報を組み合わせ、編集し、何か別のものを考え、当てはめる能力があります。あっているか、間違っているかを判断します。

AIというものは、翻訳でもそうですが、大量のデータを集めて、最も多いものを検索し、選択しているわけです。

やっていることは、ワープロと似ているかもしれません。
ワープロで書くということは、書いているというよりも、これは、検索に近い。
キーボードで文字を入力し、検索候補から選んでいるわけですからね。

AIもやがて、人間の様に、判断できる日が来るのではないか、それがシンギュラリティなのではないか。

どころが、どうも、人間がAIの能力に近づいてしまう日の方が早いんじゃないかと言う気がしてきました。

AIが人間の知能まで高まりつつあるのと同時に、人間の知能がAIレベルまで下がっていくのではないか。

もしくは、人間の脳というか、考え方がAIに近づいていくのではないか。

限られた知識をもとに推測し、思考の飛躍をするのが人間でありましたが、
大量の情報に晒され続けることにより、その大量の情報を常に脳の中で浮遊状態にしておき、アウトプットする。

こんな人間が発生してくるのではないか。

スマホ脳なんて言われていますが、実際、年齢にかかわらず、スマートフォンで大量の情報を検索し、それを比べて、選択する。

普段の買い物から、娯楽から、旅行から、こればかりじゃないでしょうか。

これは、コンピュータの思考方法ですよ。
スマートフォンはコンピュータですから、それを日常的に四六時中使っていれば、当たり前に、脳も変化するでしょう。

そうして、おばあちゃんの知恵的な思考ができる人間が減り、情報処理に長けたな人間が発生するのではないか。

記憶力の減退は、脳のネットワークを伸ばすことにより、補ってきたわけですが、その記憶の減退は、端末によって補うことで、脳の機能が若いままでいるかのような状態になる。

脳の神経回路は伸びない半面、大量の情報を処理し続けるのが人間の生となるのではないか。

考察が得意でない今のAIですが、考察もやがて、人間がどのように思考の飛躍をしているのか、学習することで、疑似的に可能になるのかもしれません。

その時には、大抵の人間の脳は超えるでしょうね。

なぜなら、その時、すでに、人間は、AI的な機械学習にさらされた脳に近づいているでしょうから。

スケジュールに慣れきった頭

便利になり、公私にわたり、スケジュールに沿って処理していく生き方に慣れ切って、能率第一主義で生きている状態で、AIが進化し続ける。

自分のスケジュールが第一であり、それを義務であり、権利でもあると思い込んでしまっている。

推測をせず、スケジュールを処理してゆくだけの脳になっている。

翻って、現実の都市を見ますと、今の東京はローマも形無しのパンとサーカスの街になっているように見えます。

それも、スケジュールされたパンとサーカスです。

広告代理店の作る物語に参加したい者は、参加すればいいという具合に、日々、変化し続けていますね。

人口が増えました。

かつてはドーナツ化現象と言われて、都心の人口減が話題になっていましたが、都心にマンションが林立していますね。

1970年から2000年までの30年間で人口増加が50万人程度(1970年の11,408,071人から2000年の12,064,101人)でしたが、21世紀に入ってからの20年で200万人増えました(2020年で14,047,594人)。

都心部も最早生活圏と言うわけです。

江戸は大きな宿場町という側面もありましたが、都市というものは、仕事がありますから、労働者が流入します。

新宿も渋谷も勤め人ばかりですね。そこに外国人も入り込んでくる。

町全体の個性は、薄れ、平板化してしまいましたね。
作った人間の人格が現れているのかもしれません。
ITシステムもそうですが。

かつて、地方がどこも同じ景色になってしまったと言われました。

大通り沿いにチェーン店やパチンコ屋が並び、大型スーパーで買い物をする。

少し前から、その能率主義の波が、東京に来ているように見えます。

スケジュールと言うのは、時間の効率化ですから。空間も効率化されるわけです。

旅行もスケジュールの消化ですよね、今の個人旅行は。

自分でスケジュールを立てて、それを処理していく。
寄りやすい所を探し、ポイントはいくらなどと計算するわけですよ。
ラッシュ時間の電車にスーツケースをぶち込んでくる外国人観光客見ていても、スマートフォン片手に、スケジュールを片づけているかのように見えます。

すでに世界では目新しいものも場所も少なくなりましたし、今更、見物旅行と言っても、確認作業をしているかのようですよ、現地に行って、現場を確認するわけです。

ローカルな部分に目を向けても、新宿でも、渋谷でも、池袋でも今や、何も変わらない。

銀座にチェーン店やスーパーが進出し、自転車が目に付くようになった。

どの町も、高層ビルが建ち、ビジネス街と、マンションが入り混じるようになり、かつてはなかったスーパーができる。

新宿はかつての東京をなぞるかのように、どこまでも広がっている。

大量のものが必要なんですよ、AIの発展にも、都市の発展にも。

東京が、労働と消費の街に収斂してゆく。
人間は、近くにあるものを利用する。
そこで住む人々の生活というものは、自ずと労働と消費に収縮されてゆく。
あらゆるものの効率化によって。
労働も消費も禁止と規則に縛られたものでしかない。
自己は、どこまで行っても、いつでも抑圧される。
祭りと言えども、今やイベントでしかない。
イベントは、効率を考えた単なる消費である。
蕩尽でもなく、解放でもない。

蔓延するPR

大量の情報に晒されて、じゃあ、多面的な見方ができるのかと言いますと、そうはなりません。

むしろ、同じ考え、同じ価値観になっていきます。

人間の考えること、欲望なんて似たり寄ったりですからね。

ネットが日常に蔓延するようになって、10年ですかね、15年ですかね。

すっかり人類の分化も考え方も似たり寄ったりのものになった感があります。

世界の一様化、大手検索エンジンがやったことは、それで、他の企業も追従しています。

大手検索エンジンは、大手検索エンジンの私有地なんですよ。

個人店が勝手なルールを決めても構わないように、大手検索エンジンの検索エンジンも大手検索エンジンの会社が主人なんですよ。

その仕組みにほとんどの人は気づいていないまま使っているわけです。

少し前、様々な企業が自前で会員向けの雑誌を出していました。
通販化粧品で有名な会社とかありましたね。
そこにあるのは、一般的な話であっても、結局は、企業の宣伝でしかないのですが、チラシではなく、冊子と言う形を取ることで、恰も、公に販売されているメディアのように思い込ませる効果があるわけです。

よく、『何々大学研究室認可』とか、『評価済み』とか、広告に出でいるじゃないですか。

あれ、大学の産学連携室などに、企業から申し込みが来るんですよ。

『海外の製品を輸入しているから、有害物質がないことを証明してくれ』とか、『安全性の試験をしてほしい』とか、更には『マーケティングのアイデアが欲しい』とか、経営学部の教員などにも来ますね。

それは、自分で考えたらいい気もしますが。

大学ももちろん、面接したりしますが、普通の商売ならば、協力してあげるようですね。

『産学連携』なんて聞きますと、さも、大学と企業が対等に、合同で製品開発を進めているように聞こえますが、実態は、商売がうまくいくように手を貸してくれというものが少なくないですね。数としては。

そうして、証明してあげると、広告に、『何々大学研究室評価済み』なんて言って商品を売るわけですが、ああいうものは、別にタレント広告みたいなもので、その芸能人と、商品は関係ないように、その教員と、商品も関係ないんですがね。

それにもかかわらず、そういうお墨付きを見ると、その商品が信用のおけるものとして感じてしまうのが消費者なわけです。

受験雑誌もそうですね。

受験雑誌、いろいろな学校の紹介をしています。
あれ、学校がお金を払って取材に来てもらって、ライターに書かせているんですよ。
それを『記事広告』なんて言います。

もちろん、内容は学校側がチェックしますから、マイナスのことは書きません。

しかし、見た目は雑誌の体裁を取っていますから、どうもその雑誌が自主的に取材したものと言うように見えるわけです。

検索エンジンでも、企業のサイトでも、あれは私有地で勝手にしている宣伝にすぎません。

それに反旗を翻そうとしている検索エンジンやサイトやプラットフォームは出てきていますが、今更、覆すのは難しいんでしょうね。

私は、GoogleもBingも使いませんがね。
それは単純に、以前に比べて、思い通りのものが出なくなったからですが。

何が言いたいのかと言いますと、ネットと言う、相手の顔が見えない媒体では、公正や公平というものを前提に考えない方がいいということですよ。

最大手の検索エンジンの会社も、昔は、社訓に『公正』を掲げていたのに、今は外したらしいですね。

そういうことです。

検索エンジン会社もSNS運営会社も組織よりも個人の味方と言う様な面で登場したものの、今や単なる営利企業、広告屋に成り下がった感があります。

自分たちが大組織になった以上は既得権が生ずる。
そうなると、それを守り、更に増やすというホモサピエンスの習性からは逃れられないわけです。

生成AIは、OfficeでもなければGoogleWorkSpaceでもない

会社でも、chatgptの導入が始まりましたね。

研修会などと称して、インストラターを呼んで勉強しているようです。
私も、とある会社からオファーがありましたが。

その時思ったのが、chatgptの何を教えるんだということでした。

あんなのはチャット形式で、『こんにちは』から始めて、雑談でも、相談でも、Excelでも、スクリプトでも、マーケティングでも、何でも聞いたらいいんじゃないか。

どうも、chatgptで何ができるのかを『ワークショップ』形式で教えるらしいですね。

テキスト形式で、何が『ワークショップ』なんでしょうかね。

それこそ、対話しながら自分で探れと言いたくなりましたが。

どうも、多くの人々は、生成AIを今迄のコンピュータシステムだったり、パッケージソフト、Excelとかと、同じ次元で考えているようですね。
同じものと言いますか。

あれ、Officeとかとは違いますよ。

コンピュータシステムとか、ソフトというものは、融通が利きません。
指定され他通りにやらないと、エラーを繰り返して、かたくなにしようとしません。

今、こうしてテキストを入力していることからしてそうです。

それが人類にストレスを与えているわけですが。

以前、縄文土器の漫談をしました。

縄文土器の草創期、それまで人類が使っていた、木や獣皮で作っていた器の形と模様を土器で再現していた。人類というものは、新しい素材、道具が登場しても、見た目を同じにしないと済まないという様な話でした。

縄文人と同じく、今の人類も、今迄のコンピュータソフトと同じ感覚で生成AIを見ているんだと思いますよ。

相も変わらず、自分たちが労働をする気満々なわけです。

コンピュータシステムに自分たちを合わせる気でいるんじゃないでしょうか。

生成AIというものは、対話していくんですよ。
一方的に指示したり従ったりするものではない。

AIの回答を見て、自分でテストして、更に良いものにしていく。

人間の会話と同じですよ。
相手の言葉を受け取り、自分の持っているもので編集してまた返す。
これが対話と言うことですよ。

しかし、多くの会社従業員は、この対話と言うことがわからないのかもしれません。
従うか、指示を出すか、ばかりの業務でしょうから。

だから、Officeの導入度にしたように、人間のインストラクターに教えてもらおうとするんでしようね。

会社にすでに、活用している人間もいるでしょうし、役職が率先して、勉強会でも開けばいいんじゃないでしょうか。

自主的に勉強すれば済む話なぜ、わざわざお金を払って教えてもらおうとするのでしょうか。
人間に教えてもらう用を省くための生成AIの使い方を人間に教えてもらうのはどこか滑稽に見えます。

同意書の話もそうですが、役職が、従業員を信用していないんでしょうね。

言われたことを100なら100やることを期待しているだけで、120とかしなくていいから、大人しく、業務に従事していてほしいんでしょうね。

何のために、組織に多様な人間がいるんでしょうかね。
それとも、多様性を失わせていくような組織運営なんでしようかね。

DXもそうですが、高いお金を出して、社員にとってはよくわからないコンサルタントやインストラクターを雇うなら、給料上げてくれと思う人は少なくないんじゃないでしょうか。

あとは、コンプライアンス的なものも教えるんでしようかね。外部の人間に教えてもらうのもよくわかりませんが。

コンプライアンスというものは、何でしょうかね。
『コンプライアンス研修』とか、受けさせられますよね。
それで、済んだら『同意』させられるわけですよ。
同意なんてしたくなくても、会社の都合で同意させられるわけですよ。

この辺、微妙に法に反していませんかね。日本国憲法には反している気がしますが、気のせいでしょうか。

コンピュータシステムの使い過ぎなのか、今の時代は、人に思い通りにさせない、勝手をさせないようにするにはどうするかという考えが、行政でも公共の機関でもない組織や人々の間に蔓延しているように見えます。

コロナの時にできていたテレワークを止めちゃったのも、要は、従業員を信用できないから、管理下に置くために出社させるんでしようね。

まあ、従業員は、従業員で、もう、さぼれるならさぼりたい、休めるなら休みたい、そういう社会の風潮になってしまいましたからね。

出社しないといけないとかいう事柄の、多くの部分が、紙の書類とは言われますが、テレワークをせざるを得なかった時に、紙を使って、処理したり、回覧したりする必要のないようにするのをせずに、テレワークの必要がなくなるのを待っていたんじゃないでしょうか。

まあ、紙に関しては、役所、行政が率先して廃止しないと、なかなか進まないんでしょうが。

マイナポータルも、なんか、あまり、当初から、機能が変わっていない気がします。
未だに、紙で提出したり、窓口で手続きしたりしないといけないことの方が多いと言いますか、マイナポータルって、普段、何に使うんでしょうか。
そして、あれを作り、維持するのに、どれだけの税金を使っているんでしょうか。
そして、マイナポータルができてからも、税金や社会保険料は何で上がってるんでしょうか。
効率化したら、経費は下がるものですよ。

環境もそうですね。

今の自分たちの都合でものを考え、何十年、何百年、何千年と続いてきたものを、躊躇いもなく、抑制し、管理下に置かねば済まなくなっています。
そんなことで、人間の心に植え付けられたコンプレックスは消えないんですが。

すでに、会社の内部資料をAIに読ませるサービスも始まっていますね。Googleとかが始めています。当然、情報は、収集されます。
それで、まだまだ企業はそこまでの利用は二の足を踏んでいるわけですが、chatgptだって、出てきた当初は、とても会社で使うわけにはいかないという様な風潮でしたが、今は、導入しています。
大学だって、全学で使えるようにしているところも出てきました。

そもそも、スプレッドシートに情報を入れてドライブに上げているんだから、すでに収集しているでしょう。
そのうち、社内文書も読みこませるようになると思いますよ。

そうなったら、格段に業務がはかどるでしょうね。

あれがどこにあるとか、何がどうしたら進むのかは、AIに聞けばいいんですから。

今でさえ、スクリプトを組めば、事務作業は楽になっているわけですし。

さっさと、生成AIを導入したらいいんですよ。
研修なんて待ってないで、自分で動く、それがAI時代、それを支えるのが、生成AIだと思います。

しかしまた、いつの間にか、同じような生き方をする人間が増えましたね。
仕事選びから、仕事の仕方、生活の仕方、遊び方。

行政は楽でしょうが、それが時代というものなんでしょう。
そう仕向けられたのかもしれませんが。

これから、静に暮らしたいという人々が増えていくと思いますよ。

『スローライフ』とかいうメディアにお仕着せられたものではなく、もう静かに暮らしたいんですよ。

デザインの時代が過ぎ、PRの時代が過ぎ、どうなっていくんでしょうね。

データでパワープレイをして更に、人々の価値観を一様化してゆく方向で行くのか、それを拒否し、個人が目先の損得とか流行に左右されず、また、与えられたライフスタイル、物語を拒否して、自分の感覚で生きる自分になるのか。

いくらAIが発展しても、人間に追いつけないものは、思いやりといますか、優しさなんだと思いますよ。
AIの優しさは、プログラムからくる、一般論ですから、事務的なカウンセラーみたいなものです。

個人を見ているようで見られないわけです。

少し、話がずれますが、私は、広報をやっていたので、最近は、広告全盛だなとは思います。

駅でも道でも、ネットでもメディアでも、広告だらけ、IT企業も、半分広告屋の体を示しています。

昔のネットは、広告なんて、怪しいサイトだけでしたから、広告の入っているサイトや動画は、どうも変に見えてしまします。

ただ、最近思うのですが、そろそろPRの時代ではない気がします。

駅の広告を見ても、ネットの広告を見ても、SNSでも、何というか、広告自体がださいという様な感覚になることがあります。

動画でも、PR強めのものですとか、電車でありがちな、モーショングラフィックで、テキストやグラフを動かしまくっていものとか。

もう今更ですよね。
モーショングラフィックが流行りだして、10年以上たっているんですが。

ああいうのは、リアルの人間で言えば、喚き散らしているようなものですから、どうなんでしょうか。

twitterでの、大企業の変なノリも、すでに内輪受け見たくなっていますからね。

ああいうのも、昔の面白広告みたいなものの延長なのでしょうが、無理やり長期連載しているような漫画みたいなもので、最初は目新しいですが、いつまでも続けると、部外者からすれば、どこが面白いのかよくわからない、
この企業は真面目に商売をする気があるのだろうかということになります。

時代が変わった気がします。

内輪受け的なノリを広報している企業は、時代が変わったことに気づいていないのかもしれません。

マーケテイングも、広告宣伝、それもこれまでのコンテンツマーケテイングから、パーソナライズマーケテイングに変化していっている最中のようです。

いわゆる『ネットのノリ』のようなものは、廃れ、人の心をいやすものは、ネットやメディアから、現実世界に立ち戻るのだと思います。

先日、有名なお笑い芸人の方が、テレビの主たる視聴者は50代以上になっていると、テレビメディアの危機を述べていましたが、今更と言う感があります。

番組に時間も見る場所も合わせないといけない、ながら視聴がしづらい、内容は他人のお喋りの垂れ流し、所詮は関係のない他人の話ばかり、と言うことになれば、まともな人間は見なくなるわけです。

次は、宣伝広告、更には広報もそうなるんじゃないでしょうか。

企業のtwitterでの変なノリに賛同している層は、テレビの主な視聴者と、似たり寄ったりなんじゃないでしょうか。

テレビ文化が廃れつつあるように、ネットの文化も廃れ、変わっていくのでしょう。

人間一人一人が、心の余裕がなくなりつつある上に、同時に王様気分でいたいという欲望は肥大化していく。
そうなると、自分に役に立つ情報、自分を喜ばせてくれるコンテンツ、自分が世界の中心でいるかのように思わせてくれるようなものを欲しがって行くのでしょうから。

より真面目な方向に進む気はしますがね。

なぜかと言いますと、ほとんどの人間は疲れているんですよ。

システムを変更しても、一向に減らない事務量であったり、詰め込まれて運ばれるだけの通勤電車、プライベートでも職場でも、面白いことを言って受けを狙い、また言われたら笑って、役に立つことをアピールし続け、共感したくないようなものまで賛同し、仕事が終われば解放され、娯楽と言えば、有休とって、遊んだり飲みに行ったり、旅行に行ったり、そういう、『人並み』の暮らし方に。

優しさというものは、人間がその知能を使って用いられる才能なのですが、
グローバリゼーションと言いますか、能率主義と言いますか、多様性と言いますか、そのようなものは、優しさというものに対して、価値を見出さないようですね。

自由とか許容とかいうものと、優しさは違うものです。

真面目な人、優しい人こそ、AIが人間の知能に追いついた後に、必要とされる日が来るんじゃないでしょうか。

人間の最高の才能は優しさだと思いますよ。

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