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【民俗学漫談】習性としてのコミュニケーション
SNSや掲示板と言ったコミュニケーションのプラットフォームができて、『人間がこれほどまでにコミュニケーションをしていたがっていたのか』と言うことが浮き彫りになりました。
しかし、SNSでも動画やいわゆるライブ配信などを見ていると、コミュニケーションと言いつつ、一方的なコミュニケーションにも見えます。
主にテキストベースで、投稿者なり、配信者なりに向かって、多数の人間が、前後の文脈も顧みずに言葉を投げかけています。
自分の言いたいこと、『今日は何をした』、『何を食べた』などを伝えたいわけです。
もちろん、プライベートならいくらでも結構なことではありますが、公の場で自主的ににするわけですね。
その場でどういう流れ中もお構いなしと言う場合さえあります。
そうして、言いたいことを言った暁に満足する。
こうした現象は、コミュニケーションと言うよりも、『聞いてほしい』、『わかってもらいたい』という念の表れにほかなりません。
人類は、どこまでも、この『わかってもらいたい』が付き纏います。
『聞いてほしい』と言うのも、これは本能というより、人間の習慣なのです。
猫が動くものを見ればじゃれつく。
これと同じように、聞いてもらえそうなプラットフォームがあれば、話さずには、実際には多くがテキスト入力ですが、吐き出さずには済まないわけです。
そうした、『聞いてほしい』というプラットフォームを人類は探し続けているわけです。
原初は、古代人、ヒト属が火を囲み、その日の狩猟採集について、その場にいる仲間に聞いてもらっていたのだと思います。
そこでしょうね。
『聞いてほしい』の発生は。
火の利用としては、百万年以上昔からしていたらしいですが、人為的に火をおこしての利用は12万年程度前からだと言われています。
40万年50万年前から使用していたらしいのですが、人為的に火を起せるようになった痕跡が残っている最も古いのが12万数千年あたりらしいです。
すでに、人類は相当多くの単語を用い、音声コミュニケーションをしていたのですが、そのあたりはまだ複雑な文法や言葉の階層的な使用はできていませんから、火を囲んで、自分の武勇伝や、発見や、その他腑に落ちなかったことを片言で話していたのだと思います。
それまで人類の食べ物は、生肉や果実、種などでした。
今でも生で食えものですね。
今のような野菜、葉物や根菜、また豆類などは生で食べられません。
野菜は品種改良で食える物にはなっていますが。
大昔の植物の多くはそのまま人類が食える物ではありませんでした。
それが食える物、食べ物となったのは、火を使えるようになったからにほかなりません。
火を通すことにより、植物の毒性が薄まり、消化もしやすくなりました。
生肉も火を通すことで、うまくなるだけでなく、消化吸収しやすくなる、つまり消化のためのエネルギーが少なくなるという利点もありました。
そうして、摂取カロリーを増やした一部のヒト属、ホモ・サピエンスには違いないのですが、その一部の脳が拡大したわけです。
今の人類のような複雑な言葉、前後関係や空間的上下関係を話せるようになったのは、7万年前、おそらく突然変異からと言われています。
ネアンデルタール人と現生人類が分岐したのは、47万年〜66万年前と言われています。
そこから約50万年の間、現生人類はほとんど何も変わらぬ暮らしをしていたのですが、突然、洞窟に絵を描き始めたり、完成を想像しなくてはできないような道具、釣り針などですね、そうした道具や、どうもあの世を想像していたのではないかと言う様な埋葬の痕跡が現れます。
いきなりなんですよ。
その頃、と言いますか、少し前、地球規模の異変が起きました。
今から約七万五千年前から七万年前、インドネシアのスマトラ島のトバ火山が大噴火をしました。
この噴火は、人類が発生して以来、現在に至るまで最大のものでして、噴出した大量の火山灰が日光を遮断し、地球の気温が平均で5度も下がったものでありました。
この寒冷化はその後6千年間続き、その後も地球は断続的に氷河期を繰り返し、最終氷期へと突入することになったのです。
この環境の変化によって、人類は減少し、1万人以下になったとも言われます。
テクノロジーも何もない時代、ほとんど絶滅寸前です。
実際に人類の仲間、ヒト属の他の種はネアンデルタール人を除いてほとんど絶滅してしまいました。
おそらく、半端な進化が過酷な自然環境で生き残るのが難しかったのだと思います。
他の種は現生人類やネアンデルタール人ほどの知能はなく、他の生き残った動物のような肉体的生存能力も低かったものと思われます。
ネアンデルタール人の脳は現生人類よりも、むしろ大きいくらいでした。体も大きかったのですが。
この現象により、人類の遺伝的多様性は失われたとされます。
今の人類は、遺伝子的に別の種類になりにくいんですよ。
70億もの個体がいながら、ヒト属の多様性というものは他の生物に比べたら無きに等しいものです。
一度減った種が再び繁栄するとこうなるらしいです。
人類の脳が発達した原因はいろいろな説があります。
二本足で立ち上がって視野が開け、脳が発達したという説もありました。
しかし、アウストラロピテクスというまだ原人にもならない人類、人類がチンパンジーと分岐した次の段階ですが、そのアウストラロピテクスは二足歩行していたのですが、脳の大きさはチンパンジーと変わらぬものでした。
獲物を狩るために発達したとか、逆に狩猟者から逃げるために発達したとか説があります。
火の使用や共同での狩りによる、社会の成立が相手の表情を読んだり、予測するための能力を得るために発達したとかありますね。
ちょっと時代がずれている気もしますが。
様々な説がありますが、とにかく、人類は脳だけは大きくなった。
しかしそれだけではまだ、人間とは言い難い。
知能が高い動物です。
そこから飛躍が起きないとならなかった。
そこで地球規模の大噴火が起きる。
人類の大半が滅びる。
残った人類は洞窟に隠れ、いるかいないかの動物を捉え食いつなぐ。
衣服の誕生もこの時と言われています。
寒さをしのぐためですね。
この時の人類は、常に続く寒い曇天のもとで生きていたわけですよ。
灰色の世界で、洞窟、もしくは洞窟のような居住空間に住んでいたわけです。
この異常な環境において突然変異が起きたのではないでしょうか。
それまでと同じ人類には違いないのですが、そこで成長の遅い人類が登場したのではないか。
脳の発達、特に前頭前野と呼ばれる部分は、霊長類全体でもきわめて発達が遅く、20代半ばから30歳くらいまで発達し続けていると言われています。
ほとんど当時の平均寿命ですよ。
しかも、この部分が機能するためには、5歳くらいまでに複雑な言語体系に触れる必要があるらしいんですね。
前頭前野と呼ばれる部分は、物と物との関係性を理解し、記憶や言語を繋げて新しいものを考え、理解する部分だそうです。
最も重要な部分が最後に発達するわけですから、20代での悩みというのは、脳の発達という肉体的発達により解消するという希望が持てるわけです。
これがどうも7万年前に起きたらしい。
発達が遅れるということは自然界において、生存に適さないということですから。
人為的にこんなことができるわけはないので、環境による突然変異なのではないかと思うんですよ。
それで、7万年前、環境が激変した。
温暖なサバンナ的空間で暮らしていた人類が、暗く寒い空間で暮らし、活動量も減ったわけです。
そうした中で、ある種の人類が成長を遅らせることにつながった。
言い方を変えれば、ゆっくり発達することになった。
このゆっくり発達することで、より複雑な事柄を理解し、実行する脳を得たのではないでしょうか。
洞窟で、火が揺らめくわけですよ。
外は寒いから中にいるわけですよ。
そうすると自然と物を考えるわけですよ。
ヨーロッパと言う寒冷地、しかも小氷河期に近代哲学が発達したのと同じなわけですよ。
と言っても、その頃はまだ、思考もままならぬわけですから、いかんともしがたい。
そのままならぬ脳のじりじりしとした状態が突然変異を生じたのではないか。
そうして、洞窟の壁に揺らめく炎の影を、炎とは無関係な独立した黒い部分ではなく、炎によって、自分を映し出す影と理解し、やがて、輪郭を壁に書く、残すことを始めた。
絵画の発生です。
そこで、すでにある物質のみを利用するばかりであっ人類は、初めて自分の手で何かを作り出したのではないでしょうか。
それまでは、砕くだけ、磨くだけの行き当たりばったりの産物であった石器、自分では制御できず、できた結果を利用するしかなかった石器が、あらかじめ頭の中で完成品を拵えた状態を作っておき、物質をその頭の中の完成品に寄せるという計画性の上に成り立った産物に変わった瞬間なのです。
人類は抽象的な思考ができるようになり、記号を用いることができ、先のことを考え、計画性のあることをできるようになった。
動物を捉える仕掛けを作り、道具やボタンなども作り出せるようになり、壁画を描くようになりました。
つまり、そこにないものを見出し、実現するにはどうすればいいのかという考える能力を身に着けたのです。
この飛躍により、ようやく、現代の人類が誕生するのです。
そうして、人類は突然変異から、動物でなくなり、動物を支配し、他の人類、旧人や原人と言われる古い人類を駆逐したのです。
火もそうそう簡単に使えるものではなかったがために、共同体の重要性が増しました。
共同体に属した方が生き残れたわけです。
共同体に属して、同じ食卓を囲むということは、そこにコミュニケーションが発生したということになります。
その場で、見聞きしたことを話す、更には想像力を駆使して話す。
そういったことをするようになったわけです。
人類のこの習性は、現状をそのままにしていられないというものでもあります。
どういうことかと言いますと、動物ならば、獲物を狩り、食べるという行為は、ただそれだけのことです。
ところが、人類は、それだけでは済まず、仲間のヒト属に聞いてもらって、自分の頑張りを認めてもらうまでが、一連の行為となってしまいました。
不思議な習性ですね。
現状をそのまま受け入れられないのですよ。
いくら釈迦が言ったところで、人類の習性として、想像力を使用しながら、他人に話さずには済まないわけです。
自分の得た結果を、拡大させずには済まないという習性は、人間の発達した脳のためでしょうが、これは、現在に生きず、未来を考えて生きていることにもなります。
努力をしますね、人類は。
この努力、つまりは労働ですが、これは、現在を堪えて、別の言い方をすれば捨てて、未来をより良くしようとする行為です。
この未来を考える習性が、獲物を捉えるや、帰ってからそれを話そう、うまくとらえられなかったら、それもまた帰ってから話そう。
話したら、満足し、脳内では幸せホルモンが出る。
そもそも片言ですから、正確には伝わりません。
どうせ正確には伝わりませんから、ちょっと盛るわけです。
ちょっと盛ることで、更に自分が認められる。
ちょっと盛ればさらに受けるわけですから、次回もまた盛るわけです。
同時にフィクションも発生するわけですね。
それが聞いてほしい、自分をわかってもらいたい、という習性につながり、それが、『聞いてほしい』を実現してくれる昨今盛んなプラットフォームにより、昼夜を問わず、その習性を満たされる状況になったのだと思われます。
SNSで、『盛る』という言葉が使われるようになりました。
修正するということですね、写真でも自分の経歴や経験でも。
それもまた十万年前からの人類の習性なわけです。
旧石器時代は最終氷期の終焉期(約一万年前)に終わります。
そこから人類は急速に発展するわけです。
交易が始まり、すでに比較的温暖で肥沃な土地では農耕が始まっていた。
とうとう文明の兆しが見えてきました。
何も盛らずにコミュニケーションをしている人っていないと思いますよ。
今や写真もコミュニケーション手段なのですから。
その、『聞いてほしい』と言う習性が、『わかってほしい』となる。
人間同士が分かり合えないというのは、誰であっても、『聞いてほしい』というものがいつなんどきでも拭(ぬぐ)い去れないからです。
これは、人間特有のコンプレックスと言ってもいいもので、コンプレックスは、自他を区別できるようになった時から発生し、やがて、物々交換からの取引をするようになって、日常的に感じるようになった人間の特性だと思いますが、『聞いてほしい』は、一面、コンプレックスの解消なのです。
分かり合うことの難しさは、他人というものが、常にコンプレックスを抱えている、今風の言い方をすれはもやもやを抱えている、そうした人間に対して、『聞いてほしい』と行ったところで、聞きながらも、自分の『聞いてほしい』を入れ込む隙を窺っているからにほかなりません。
常に、自分のコンプレックスを解消する先を、自分のこのもやもやをわかってほしいという、その持っていきどころを探っているからなんですよ。
もちろん、その欲望の大小がありますが、それだから、他人の話を聞くという行為は、欲望抜きにしては、そうそう高度な行為になるわけです。
それでも、人の話を聞こう、わかろうとするところに人間らしさというものが現れる、それもまた人と動物との違いなわけです。
とはいえ、犬や猫でも飼い主を気遣うようなしぐさをすることもありますね。
サイコパスなんて言うのは、出世したり、活躍したりする傾向が高いらしいですね。
彼らは、他人の話を聞こう、他人を慮(おもんぱか)ろうとする気遣いを持たずに、自分に集中することができるからではないでしょうか。
火の使用が数十万から十数万年前、複雑な言語を操れるようななったのが数万年前、農耕の発生が一万二千年前、それからほとんどすぐに農作物の過剰生産もあって肥沃な三角地帯で文明が発生したのが一万千年前、文字の発生がメソポタミアでの楔形文字で五千五百年前。印刷が二千年弱、二世紀ごろの中国、それからエネルギーを利用することを覚えながら、テクノロジーを飛躍的に発展させてきました。
そうして、人類は、コミュニケーションの手段と速度と、その相手を増やし続けたのです。
今の時代、『聞いてほしい』、『わかってほしい』の手段も、火を囲む必要もなくなり、ビジネス、権力、SNS、趣味娯楽、団欒(だんらん)と、人さまざまなわけです。
猫でも、一日遊ばないとストレスを感じてしまいます。
一日15分を2回程度はじゃれていないと済まないのです。
人類も同じことです。
『伝える』と言う習性を満たす必要があるわけです。
また、仲の好い猫同士で、お互いをなめ合っていますが、社会的グルーミングをしているわけです。
猫の社交ですね。
この社会的グルーミングは、霊長類では、毛づくろいですとか、蚤取りですね。
猿が良くしていますね。
では、この社会的グルーミング、人類もしているんですよ。
それが、コミュニケーションと言われています。
労(ねぎら)いの言葉であったり、優しい言葉ですね。優しくするから、相手にもしてもらうことで、関係が成り立つわけです。
更にこの社会的グルーミング、噂話もそうなのではないかと言われています。
人間は噂話を良くしますね。
井戸端会議から会社の飲み会、SNSなどのインターネットでさえ、半分噂話ですよね。
『ネットニュース』なんて、まさに噂話です。
本来、学術論文を見るためのものであった、World Wide Web(ワールド・ワイド・ウェブ、略名:WWW)まで、噂話の場にしてしまうのですから、噂話もまた人類の習性でして、そうして社交的グルーミングをしているわけです。
人類が言語を使用できて、今この場にないものを伝えられるようになった時、まだその頃は、猿のように毛づくろいなどをして社交的グルーミングをしていたと思われます。
それがある時気付いたんですよ。
コミュニケーションをすると心地よいことに。
そうして、言葉による社交的グルーミングを始めたんじゃないでしょうか。
何より、毛づくろいより、労力を伴いませんからね。
言葉を発すれば済みますから。
毛づくいには限度がありますが、言葉によるコミュニケーションは、際限がありません。
蚤だってそんなにいませんからね。
人間にとって、言葉が毛づくろいならば、トークは自然な行為なんでしょうな。
釈迦もずっとトークセッションをしていたようなものだったかもしれません。
今や、物理的空間でさえ制約されずに、ネット上で社交的グルーミングをしているわけです。
と言うわけでして、インターネット上は社交的グルーミングの場なのですから、相手を慮(おもんぱか)る言葉を選ぶ必要があるのです。
コンプレックスにより社会的経済的格差のばかり注目されていますが、その裏で不気味に人格的格差が広がっている気がする。
人類にとって、コミュニケーションは習性なのですから、なるべく行えるような手段や場を持てるといいですね。
もう書くのを止めよう、と思いながら、つい、こうして書かずには済まないのも人類の習性に従っていると言えるのです。