自分の名前はすきですか?

私は私の名前がずっと好きになれませんでした。

なぜなら、「華」という字は自分にはもったいなさすぎて名前負けしていると思っていたし、ヤンキー文字のイメージが強くて私にはそぐわない気がしていました。

名前の由来も父の故郷にある山にゆかりのある「華」という字と、母の故郷の都道府県の名前から一文字とっており、女の子なのにごつごつしたイメージの山からと県の名前から字をもらうとかないわーと幼かった自分は考えが及ばず思っていました。

なによりこの名前は誰も呼んでくれなくて使われていないものだったのです。
父は名前で呼んでいましたが、10歳からほぼほぼ会っていません。
母は弟が生まれた4歳の時点から私のことを「ねえちゃん」と呼びます。
(私は母のねえちゃんではないのに、、、)
弟はもちろん「ねえちゃん」と呼びます。
この苗字の人はもれなく決まってこのあだ名!というタイプの苗字なので、友人たちはもれなく全員名字のあだ名で私のことを呼びます。
職場の方からももちろん苗字で呼ばれますし、名前で呼んでくれる人は数年に一度会うか会わないかの苗字が同じ親戚くらいで片手で収まる程です。

なので、なにかのきっかけで下の名前で呼ばれても、私のことなんだろうけど全くしっくりこなくて違う名前の被り物を着せられているかのような、居心地の悪さを感じていました。
友人が冗談で下の名前で呼んだ時は自分なんだろうけど自分ではないものを自分として扱われたような、正直とても気持ちが悪かったことを覚えています。

なぜ私がここまで名前にこだわるかというと、ある本で

「自分の名前を好きではない人は本当の意味で自分のことを受け入れられていないし、むしろ自分のことが嫌いだ。」

という一文を読んだからで、初めてこの一文に出会ったときは図星すぎて衝撃を受けたし、ずっと私は私を認められていなくて、それ以前に自分のことが大嫌いで、短所はいくらでも思いつくのに長所はあるわけがなくて、どれだけ時間をかけても出てくるものではなかったのです。
周りの人はとにかくすごい、自分なんてと全く自分のことを大切にする術を身に付ける事ができないまま大人になってしまい、逃れることができない生きづらさと闘いながら毎日を乗り越えていたのです。

そもそも[自分を大切にする]の本質が理解できていなかったし、もちろん今もすべてを理解しているわけではないけれど、自分を一番下に下げて周りを優先したり、私なんてと自分を落とすことで可能性を狭めて手に入らなかった時の言い訳にして安心していた部分があるように思います。

生きづらさをどうにかしたい、ともがく毎日の中で、
「自分を大切にする」
という大切なことが抜け落ちていることにようやく気付いて、そこから華〇〇という名前と一緒に自分を大切にする方法を手探りで見つける旅に出ました。

そもそも方法を教わって育っていないし、本に書いてある方法を試してみてもなかなかしっくりこなくて極めて難航しました。

まずは自分が欲しい!と思ったものを買ってあげることから始めました。
私は倹約家といえば聞こえはいいかもしれませんが、無駄なものを買うのが苦手でケチな所があるので、欲しいと思っても時間を置いて考え抜いてやめておいたりして無意識に我慢を強いていたのです。
はじめは100円のお菓子でさえ無駄遣いはダメ!と思っていたので無駄だなぁーと思っていたし、少し高めの洋服を買ってみても私にはもったいなくて豚に真珠だなと喜びよりも、そちらの感情の方が勝っていました。

ですが、それを続けることで
「あぁ、自分は我慢をしすぎていたし欲しいものはちゃんと手に入れてもいいんだ」
という簡単すぎる答えを少しずつですが、やっと実感できるようになっていったのです。

あとは旅の手段として自分で自分の名前を呼んで、がんばったね、今のよかったよ!相手に優しくできたね!と小さい子にするように褒めたり認めたりする声かけを意識してしてみることにしました。

大人になるとなかなか褒められる機会も多くありませんし、そもそも私は両親から褒められて育った記憶がないので、まれに誰かが褒めてくださると嬉しい!よりも、そんなことは決してないです!わたしなんかは全然すごくなんてないです!たまたま、まぐれです!!!
と全否定してしまっていました。今考えるとせっかく褒めてくださった相手に対しても失礼すぎますし自分に対しても卑下しすぎてかわいそうなくらいです。

なので、寝る前には華〇〇、今日も一日よく頑張ったね、お疲れ様、あの時あの人にこんな言葉をかけることができて素敵だったよ!
華〇〇今日も綺麗!!昨日よりもさらに顔つきがよくなったね!
頑張ったね、あんなこと乗り越えられるの華〇〇しかできないよ、ほとんどの人は乗り越えられないしほんっっっっっとうにすごい!すごすぎる!!!!
と、自分の足りない語彙力をなんとか駆使して自分の中で最大級の「褒め」を心掛けるようにしました。なるべく自分の名前を呼んであげて、私は華〇〇だと認識させる意味も込めて。

そうこうしていると、ある方と名前の由来の話になり私の由来を話すと
「山の神様から名前をもらったんやね」
と言われ、その発想は全くなかったので目から鱗が落ちて自分で自分の名前の解釈を作ればいいんだという事に気づくきっかけになったのです。

調べてみると華という字は「きらびやか、はなやか、あでやか、栄える、人を引き付ける魅力、花のように魅力的な人、外見だけでなく内面も美しい人」等、私にとってそれらを持ち合わせている人になるにはまだまだだけれども、ものすごく素敵な意味が詰まっていて
「私はいつか華を咲かせる」という希望が持てる字体だなと思えるようになりました。

母からもらった都道府県の一文字も華と組み合わせることで、花、果実、大地、自然を表し「大地に深く根を張る樹木のような強さ、凛々しさ」
という意味にとらえることができます。

そういう日々を過ごしていくと、以前に比べてほんの少しずつですが自分自身を認めることができるようになってきたのと同時に自分自身の事、自分の華〇〇という名前の事も
「なんかいいかも」
と思えるようになってきたのです。

これらだけではなく、周りの方の優しさに触れて心が満たされたり、ちょっとした成功をやったー!と喜べたりと日々の小さないろんな事を体験させてもらったおかげも大きいのですが、
「自分自身を大切にするという事に意識を向けたこと、そして小さな小さなことから実行してみたこと」
が大きいように思います。

まだまだ私は自分を好きになる旅の途中ですし、人としてまだまだ学ぶことばかりだと思っています。
ですが、確実に以前よりは息がしやすくなりました。
自分を一人の人として大切な存在として接する事ができるようになったと思います。

以前と変わらず誰も私を下の名前で呼んではくれませんが、これからもし大切な人と出会った時に下の名前で呼んでもらうのもいいなぁ、逆にその人しか下の名前で呼ぶ人がいないのは特別だなぁ、いいなぁ、といつか来る未来を夢見ているところです。

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