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同じ未来を見る、誰かのために生きよ

この週末、とある起業家育成プログラムを提供するNPO法人の合宿に参加してきた。
もう3年くらいここでプロボノをさせていただいている。

ここで新たに得た視点についてまとめた。
合宿の感想というには適さなくて申し訳ないが、どれもがとても素晴らしいものだったので残したいと思う。

人を生かすもの

合宿では、運営ボランティアを行っているメンバーが集まり、各々が議論したいテーマについて対話し、まとめて発表するということが行われた。
その中に「No Organizer, No Life」という結論を出したチームがあった。

これを聞いて、ああ、このコミュニティは家の機能をもつのだと思った。
それは思想共同体だ。帰る場所だ、共感や応援をくれる存在だ。

私がコミュニティを強く意識したのはmixiが登場した時だった。
今になるとわかるが、私の場合、ずっと必要だったのは、血縁でも学校でも職場でもない、とある思考の断片において、類似思想をもつ人間だった。

地政学的、生物学的に与えられるコミュニティが持たない思想を抱いてしまったとき、それは、誰にも見えない裏庭にそっと弔ってやらないといけなかった。
生存戦略上、群れの中で理解されないもの、少数派というのは、排除されるべき存在であったし、特に単一民族国家の日本はその傾向が強い。
その辛さに堪え兼ねたら、時に村を出ることになったり、迫害されるものだった。

一方で奨学金も起業制度も昔から存在した。
学校に行けずとも、会社に馴染まなくとも、自己実現の手段は常に開かれていて、これらの制度を作ってくださった人々こそがきっと、マイノリティの生存戦略を切り開いてくれた。
まさしく我々は巨人の肩の上に生かされている。

一方で、ITの進化によって人間の多面性の言語化が進んだ。
これまで隠されてきたそれが表面化することで自身のプリズムをより意識するようになった。きっとその見せ方を、全員、調整しているはずだ。

誰もがどこかでマイノリティになる可能性がある。
受け入れる皿がより小さく、細かく、必要になった。

きっと誰もがそれを信じるために共感や応援を必要とする。
共に生きてくれなどと言わない、それでも、ただそれだけで頑張れる。
一方で、嘘からでたその言葉ほど傷つけられるものはない。
本当にそう思える人と出会えたいだけだ、それがたった一人でもいい。

インターネットとSNSは、類似思想を、生育環境上で得られる人間関係の中に、感じられなかった人間のためのセーフティネットとして人類を進化させた。

これによりマイノリティの生存率が上がったので、人類はより多様な価値観を獲得できるようになったと思っている。
私もこの恩恵を授かった一人と言える気もする。

これまで多くのコミュニティに属してきた。
一つの目的のために冠婚葬祭のように定期的に集まっては近況を共有し、自らの思想を研磨しあう集団。
私は彼らを求め、幸運なことに、正しく、彼らが私を生かした。

世界的にシェアリング・エコノミーとSNSの風潮があるということは、生物としてこの方針が合致しているということな気がする。

コミュニティは、モチベーションを維持したり、勉強をさせてくれる場所として発生するが、結果として、心理的安全性を担保する場所にもなる。
私にとって、今関わっている全ては、きっと本来のそれとは別の価値を持つ存在だ。

どれほど孤独を主張しようと、人間は生き物で、群れだ。
共に暮らすわけではなくとも同胞を求めるものだ。

稀有な一歩を踏み出すのに足がすくんでいる人がいたら、どうぞその人を応援してあげてほしい。
自分の意思で決めて進んだという意識だけあれば問題ない。
ボロボロになって帰ってきても、大丈夫だまた新しい道を作ればいいさと、それは君に必要な挑戦だったのだと、言ってあげればいい。

そのたった一言がその人を生かす。

地球と人間

人間が進化するということにどれほど意味があるか。
今回の合宿でこれを提議した人がいた。

SDGsという思想がある。
地球という限られた資源を、進化のために使いまくっていることを改めなければ自ら滅ぶので、自覚して悔い改めましょうという話であり、とても自律的であり未来的であると思う。

宇宙事業の進展が目覚ましい。
いつか火星へ移住という計画もあるが、果たして青い星を食いつぶして次の星へ渡る生物に繁殖する価値はあるのだろうか。

子供の頃からSFばかり観て育ってきた身としては(特にスタートレックは外せない)、人間は進化の先に、ワープ9で別の銀河へ飛び、惑星連邦を組成し、未知との遭遇を果たしながら、地球へその報告をしに帰ってくる地球大作戦を期待してしまう。

また、やはり、ガリレオやアインシュタインという存在が生きて、残してくれたものの先に、人々は理論だけを以って宇宙へ行って帰ってくることをなし得たのだから、さらに先へ飛ばなければという使命のようなものも感じる。

心配はいらない気がすると思ったのは、まさに提議してくれた彼女らの存在だ。30代の参加者が見据えた未来は2030年だったけれど、彼女らが口にする未来は2060年だった。

我々が見えていないことも、次の世代には見えていて、だからSDGsという言葉が出てきて、注目されようとしている。本当に進化していなかったら、人類はこれをスルーして地球を食いつぶしていたはずだ。
人類はきちんと、地球を大切にしながら宇宙にも飛び立つことを選べる気がする。

若い世代の価値観をもって、その視点から一緒に、未来を作れる存在でありたいと思う。いつだって、古きに学び、同世代と共に生き、若きに武器を渡したいと思うし、人間はそういう生物であってほしい。

繁殖と進化

帰りの新幹線では、子を持つことと教育の話をした。
結論から言うと、繁殖と進化は別のベクトルであるということになった。

本当に自分は子供の存在を望むのか。
3歳までに多くの概念は出来上がると言われる。
成長した人間の概念を大きく変えることはとても難しい。
自分のメソッドをつぎ込んで、真に進化した人間の姿を期待するから、直系の子供を欲しいと思うのか?

それでも彼らは別の人格で別の存在だ。次の世代に生きる人々だ。
ならば、繁殖と進化は、別だと割り切ればいいのかもしれない。
別のアプローチを取ればいいのかもしれない。

そうすれば、全てを直系の子供の肩に乗せなくても済む。
そして、自ら社会のために一石を投じようとする親の背中は、寂しさを超えて、何よりも子供のためになるのではないか。
未来を作る人類を作りたいなら、自らが未来を作る人間であるべきだ。

ミレニアル世代の未来は2030年でも、Z世代の未来は2060年。
僕らは僕らの世代に必要なものを自ら作ろう。
自分たちのための箱舟を作ろう。
教育などというおこがましいことをしなくても、その背を見て育った世代はきっと、自分のための箱舟を作れる。

そしてきっと真の”教育”というのは、箱舟を作る材料を渡すことだ。
前世代の箱舟はもうボロボロで、次の世代の生活には耐えられない。

特にバブル世代とミレニアル世代の間の壁が高いのは、価値観の共通言語の差が特に激しいからだと思う。
正しくWindows95とOS X Mountain Lionくらいは差があるはずだ。
昔の箱舟はもう使えない。それは彼らのためのものだ。
我々の世代は、親子間と上司部下間がこの狭間に落ちているので、軋轢が特に強いように見える。
とはいえこれは普遍的に、各世代共通の悩みでもあるのだろう。
世代だけでなく、都心と地方であったり、国の間の格差でもあったりする。

スマートフォンとノートPCが当たり前の人とそうでない人の行動様式は全く違う。OSアップデートは加速していき、これを使える人間は、使えない人間のスピードの違いに、もう会話すら難しい。
コミュニケーションの定義ですら異なる。

SDGsは誰一人取り残さないことを標榜している。
人間はまず自分が満たされなければ誰かを助ける余裕は持てないからだ。
助け合う社会は全員が満たされて初めて実現できる。

一方で格差によって滅びるなら人間はそれまでだし、地球を滅ぼしたとしても人類はそこまでの生き物だったという話で、そしてきっとそうならないと信じている。箱舟の作り方を随分と手に入れやすくはなったはずなのだ。

地球も人間も良い意味で蠱毒なのだと思っていて、どうかそれに打ち勝つものであってほしい。

誰がために

進化のためとはいえ、それでは各人が、誰のために、どんな人生を送ればいいというのだろう。

先日、自分が年老いて、体が動かないまま激痛が走り、一人ベッドの上に横たわっている、という夢を見た。

皺が刻まれ震える手。骨のように痩せ細った体躯。死への恐れ。
寂しさを口にする相手もいないその光景は、他の誰かにも訪れたもので、自分にも遠からず訪れるのだろう。

目が覚めてから、独り、ベッドの中で静かに泣いた。


死の恐ろしさとはなんなのだろう。
孤独だろうか、後悔だろうか。

かつて、道を同じとするのだろうと思った人と道を違えたことがある。
強烈な孤独感と共に、どれほど身勝手な理想を勝手に抱いていたかを思い知った。
膝をついて、変わらないでと、泣いて乞うこともできたのかもしれない。
けれど、自分が眩しく思っていたのは、そのままのその人だった。

自分が一番でなくても良い。そばにいなくても良い。
それでもその人の幸せを願える自分であろうと思った。

寂しさを埋めるように、呪いのような愛を求めたこともある。
けれど、鎖のようなそれは、温かさと引き換えに、重たくて、やがて、歩けなくなって、行きたかった場所を思いながら空を見上げて泣くような苦しみを生んだ。

愛しあう奇跡のような幸福感も味わったこともある。
出会いと別れを繰り返し、自分は、誰もが別の人間であることをもっとも尊重する生き方をしたいと思った。

もういい。思い出しただけで涙の出るような幸せをありがとう。
私にはこれで充分だ。
私は、本質的に自らが孤独であることを、受け入れることにした。

それでも最期を目の前に突きつけられて震えるほどには、まだその現実を自分は知らぬのだということが、情けなかった。


死の瞬間に、誰かに手を握って、君の人生に意味はあったと言ってもらいたいと切望するくらいには、まだ自分の生き方に自信はないのかもしれない。


生きる目的をずっと探求してきたが、そのような人は多い。
最近は自己肯定が幸せであると定義できたので、自身の生活水準、好奇心、関係者などを一定条件下に保てれば、幸福度が維持できることは自覚できた。

多くの人が口にするのは「人のためになりたい」という言葉だ。
自分の理念からすれば、誰かに笑ってもらえた、感謝してもらえた自分に、自己肯定感を感じられるからだ。

その時笑っている人たちはきっと、運命共同体なのだと思う。
これまで人は家族や同僚などのために生きてきた。
だったら、独自思想を持つ人たちは、思想共同体のために生きればいいのかもしれない。

どうしてオンラインサロンがあるのだろうといえば、そんな気がした。

誰かが自分たちの独特な悩みを解決してくれるわけもない。
想いに共感できるわけもない。
それができるのは、同じ課題を持つ人たちだけだ。
少数な課題をもつ人間ほど、その負担は重い。
どのように手を入れていけばいいのかを知りたくて、そこに一緒に行ってくれる仲間が欲しくて、そこをさまよって見つけては前に進もうとする動きこそ、それな気がする。

思想共同体のために生きよ。
自分の理想郷に必要なための舟を作ろう。
そしてきっとこれが起業でなくとも構わなくて、舟ができるための最短に資するポジションとして、自分にできる最善を尽くすだけ。
この一歩が、この旅路が、いつか、進化に繋がると信じて。
同じ未来を見ている、誰かの糧になると信じて。
紡がれた歴史の上に、自らがより良い生き物として存在し得たと信じて。

もしかすると、一人その後悔に涙して死ぬ時を迎えないように、誰もがそんな焦りを覚えているのかもしれない。
同じ未来を見ている誰かのことを想いながら、目を閉じられたらいいのかもしれない。

誰もが幸せに死ねるような事業を作りたいと思っていた時期がある。
その時に怯えずに済むのなら、思い切り一瞬一瞬を生きられるのではないかと思った。
今でもそう思う。どのように細かくそれを設計すればいいのか、また手探りでやっていきたい。

全ての言葉は遺書

ここまでは、今回の週末で、対話によって掘り起こされたものだ。
ここからは、ここまで書いてみて浮かんだこと。

私は5歳頃から漫画を描いている。
中学生の頃から小説を書いている。
学級新聞を作ったり、ブログを作ったりしてきている。

今回のこのnoteを読んでみて、ああ、自分の文章とは、自分の遺書なのだと知った。

初めて一人で海外へ旅に出たとき、前日に遺書を書いた。
生きることでのメソッド、感じたこと、自分にとって大事なこと。
そして旅の回数が増えるごとに、帰りの飛行機で、その遺書を編集するということを繰り返してきた。(今はExcelにまとめている)

新たな経験によって変わった自分のこころ。
限りなく小さく集約されてゆく思考の切れ端たち。

いつも、簡単な言葉で、一言で、それを伝えたいという欲求があった。
一言で言えるようになるまで思考を研磨できたという、かなり激しい自己満足もあった(私はこの欲求がおそらく人に比べてものすごく強い)。

もちろん、何があっても対処できるようになるために日々様々なことを行なっている。事故があっても、どこかで人知れずひっそりと生き延びているかも知れない(そう、アメリカン・コミックの登場人物のように)

生物が生き残る力を身につけようと進化してきたのであれば、
なぜ絵が、文が、音楽が、映像が…創作物と呼ばれるものが。
古来から存在し、今も存続し、そしてこれまでも残るのか。
生まれた時から残すその全ては遺物なのだ。

生きた証を全ての存在に認めて欲しいなどという欲求は全然ない。
だが、この言葉であるとか、自らから生まれたその表現に、何かを見出す、その”誰か”へ届いて欲しいとは、とても強く思う。

noteもブログもそのためなのだったのだと。
どうしてアフィリエイト収入モデルに全くモチベーションが湧かなかったのか。広告収入だとかそういうことではなかったのだ、私には。

ネットの海を揺蕩って、言葉が、いつかその人に届いて欲しいから。
事業をしたいのは、その理念が、いつか誰かを揺さぶって欲しいから。
残したこれが、誰かの生存戦略になるかも知れないから。


働き方に悩む後輩や知人に教えてきたのは管理職の年収だった。
自分の給与も、面接履歴も、いろんな会社の年収も。
会社の種類も、新しい職種も、働く以外の選択肢も。
いろんな人に会わせ、いろんな価値観を見せた。

ここにいてくれなどと思わない。
君の生きる道はたくさんある。
そのまま振り向かず戻ってこなくてもいいんだ、どうか強く生きて。
我々だって、きっと、そうやって、いろんなものをもらってきた。

私もまた、北極星を探して彷徨う旅人の一人だ。
他の旅人の地図を見せてもらいながら、北へ南へ旅してきた。
だから今度は、君が道に迷った時に、地図を渡せる存在でありたい。
ここはこんなだったよ、君はここが気にいるかもしれない。

僕らは違う人間だ。旅路は人の分だけある。
共に往かなくても構わない。
君にとって掛け替えのない旅路を歩んで欲しいだけ。
だから私が死んでも君が地図を見られるよう、ここに埋めておこう。
地図を持っている人を教えておこう。

だから、次の旅人にどうか、新しい地図を渡してやってくれ。

そうやって、進化して行けばいい。
私が死んでも、私の骨と血肉がまた、巨人の一部になれたなら。

明日からもまた、思考を綴ろう。行動を起こそう。
明日の私よ、未来の人類よ。
よろしくどうぞ。

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Nocchi
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