『走れ、絶望に追いつかれない速さで』
その頃の僕にはわりと仲の良い友人がいて、週に何本かの映画をAmazonプライムで鑑賞しては、すぐさま互いの感想を言い合っていた。
中川龍太郎監督の『走れ、絶望に追いつかれない速さで』を観終わったときのことは今でもはっきりと覚えている。より正確に言い直すと、ほとんど覚えていない。ただ、友人に向けて「どうだった?」と得意げに声をかけたことは覚えている。なにしろ僕はひとり抜け駆けして、その作品を先に一度見ていたわけだから。
こんなふうに説明が足りない映画を、ひさしぶりに観た気がした。
「あのとき、死を選んだ親友の身になにが起きたか」を確認する物語であったはずなのに、最後までその内情がつぶさに語られる機会はない。
とにかく説明が足りない。足りないから考える。なぜ彼は生きることをやめたのか? 時間と手間を惜しまずに真剣に考えていると、やがて自分の心象がこの作品の主人公のものと重なっていくことがわかる。丁寧に、無防備に。そっと目を閉じれば、遠くと近くで繰り返す波の音。
僕がこの作品を、はじめて(ひとり抜け駆けして)最後まで観終えた時には、主人公の親友は「なにかが起きたから死を選んだ」のではなく、「なにも起きなかったから死を選んだ」のかもしれないな、と感じた。だからあんなやさしい表情を残せたのではないか。
誰かが言ったように生と死がコインの表と裏であるならば、僕たちに出来ることは、出来るだけ長くテーブルの上でその回転が続くことを祈って、ありったけの力を込めて指先でその縁を弾くことだけなのだ。
物語の真相はわからない。そもそも真相なんて無いのかもしれない。
だけどひとつ言える事として、僕は折に触れてこの作品を観返すだろうと思った。この作品を届けてくれた人々の思いに誠実であろうとするならば、そうするのが最も理にかなっている気がした。
あれから何年かが過ぎて、中川監督は『やがて海へと届く』という作品で、あらためて喪失と再生の物語を紡ぎ直すことになる。
言うまでもなく、公開から間をおかずに日比谷まで足を運んだ僕は、映画を観終えたあと、ずいぶん長い時間をかけて頭の中に流れる波の音を数えていた。地下からの階段をのぼり終えて、ようやく視界に土曜日の四角い空を捉えたところで、耳元に「どうだった?」と聞き覚えのないだれかの声を聞く。気がつけばコインは静止している。