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【800字コラム】 ラスト・サムライたちの夏(1)

鈴木貫太郎海軍大将は、日露戦争で敵艦のサーチライトを浴びるまで甲板で新聞を読んでいたほど肝が座っていたといわれ、更には敵艦を沈めまくったので「1隻は他人の手柄ということにして譲ってくれ」と上官に頼まれたほどの御仁。

第12代海軍軍令部長を最後に退官し、侍従長に着任する。
当初は宮中に入ることをためらい固辞を続けたが、説得にあたった山縣有朋が
「陛下も貴官の就任を希望されている」
と殺し文句を放ったとも言われる。

器の大きな侍従長として頼りにされる一方、軍部の横暴が広がる中、陸海軍大臣の陛下への上奏を独断で退けたことなどを根に持たれ、昭和7年の五・一五事件で反乱将校に襲撃され瀕死の重傷を負うも奇跡的に生還。

大日本帝国憲法では、重臣らの推薦に従い陛下が内閣総理大臣を指名し組閣を命ずる。これを大命降下と呼んだ。

戦争末期の昭和20年4月、天皇陛下は78歳の鈴木をお召しになった。
「卿に内閣の組織を命ず」
大命降下だった。
しかし、鈴木貫太郎は超絶異例の辞退を申し上げた。
高齢に加えて、明治大帝の軍人勅諭に軍人は政治に関わらずとの教えがある、と。

陛下は軽く微笑まれて
「鈴木がそう申すことは、分かっていた。しかし、この情況にあって他に人はおらぬ。頼むから、曲げて承知してもらいたい」
天皇の命令を拒絶するのも前代未聞だが、命令する立場の天皇が頼むと懇願するのも超超異例のことであった。

皇太后陛下(貞明皇后)にご挨拶に伺うと
「鈴木は陛下の平和を願うお気持ちをよく知っているはずです。どうか、親代わりになって陛下を助けてください」
と仰せになられて驚懼した。
鈴木の妻たかは天皇、秩父宮、高松宮三兄弟の養育係を務め、天皇も「たかのことは母親のように思っておる」と仰せになられた。
親代わりという言葉には意味があった。

鈴木は腹を据えた。

組閣にあたり、真っ先に陸軍省に向かった鈴木の要求は
「阿南惟幾大将を陸軍大臣としていただきたい」

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