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読書メモ:プラグマティズム入門 第4章

第4章 草創期のプラグマティズム
ジョン・マーフィー/リチャード・ローティ(1990年)/ 訳者:高頭直樹

プラグマティズム入門 パースからデイビッドソンまで

 本書はジョン・マーフィーの著によるプラグマティズム入門書であるが、マーフィーの急逝を受けてローティーの手により出版されたものである。本文は全てマーフィーの原著であるものの、序はローティが記したものだ。もともとは学部コースの教材開発のために準備された資料を元に書籍に編集したもので、パース、ジェイムス、デューイ、クワインそしてデイビッドソンまで、それぞれの著作を豊富に参照しながら、それぞれの関係性を明らかにし、プラグマティズムの系譜を辿る内容となっている。

第4章 草創期のプラグマティズム

 第3章では「パースのプラグマティズム」が論じられており、第5章は「ジェイムズのプラグマティズム」と題している。この第4章「草創期のプラグマティズム」では、パースとジェイムズの哲学の関係性、より端的にはその対比が示されているのだ。背景には微妙な事情がある。

 パースは「探究の方法」(”Fixation of Belief” ,1877)を発表するなど、一般的には「実質的な」プラグマティズムの創始者とされている。「実質的な」というのは、パース自身は1870-90年代を通じて「プラグマティズム」という言葉で彼の哲学を提唱したことはないからである。その言葉を初めて哲学の文脈で使用したのはジェイムズであり、パースの哲学から多くを学び、その核心を「プラグマティズム」という言葉で表現したことを認めている。

 しかし後になって、「『プラグマティズム』という言葉で何を理解しているのか?」というパースからの問いに対しては、ジェイムズは明確な回答を示していない。実際のところ、プラグマティズムの系譜にあるとされる哲学者の間でも、それぞれの哲学の体系・内容は大きく異なっている。ジェイムズも多くをパースから学び、共有する理解も少なくないし、一致した結論に達することも多い。しかし、われわれが両者のプラグマティズムを理解する上でむしろ重要なのはその対比である。それは、パースの「実験主義」に対するジェイムズの「ヒューマニズム(人間中心主義)」である。

合理性の感情

 ジェイムズはこの感情を「当惑と困惑の状態から、合理的理解への移行を伴う、安堵と平穏の感情」と定義している。それは「現在という瞬間、その瞬間の絶対性についての充足」に通じる感情であって、説明や正当化の必要のないものだとしている。この感情は、われわれが受け容れることができる哲学、世界観、「物事の枠組みの概念」を発見したときに感じる感情である。つまり、われわれが受け容れることができる哲学とは、合理的であると同時に、合理的であることを強く訴えるもので無くてはならないのである。

合理的感情を伴う哲学

 このような合理的感情を目覚めさせるために、哲学は2つの人間の基本的欲求を満たさなければならない。一つは「理論的欲求」であり、それは人間が知りたいという欲求を持つという事実からくるものである。そして、人間が行動したいという欲求を持つことからくる「実際的欲求(practical needs)」である。

「理論的欲求」の中で際立つのが、人間の持つ「単純化」と「分類」へ向けた情熱であり、知的活動の原点となるものだ。ジェイムズによれば、「実際的欲求」で最も重要なものは、「未来についての不確実性を排除する」欲求であり、「未来をわれわれの現にある力で適切に規定する」欲求だという。そして、哲学にとって「受け容れられる」ことは、「真理」であることと同様かそれ以上に重要だということである。これがジェイムズの哲学の基本原理である。

自由意志と決定論の問題

 ジェイムズにとって、自由意志と決定論の問題は純粋にアカデミックな問題ではない。決定論は、事実をもって証明することも否定することもできないのである。決定論は、「あらゆるものが、現にそうであることと異なるものでありうる可能性」を否定する。われわれが信じうるものこそが真実である、という考えも不可能であると断定されるである。このような哲学は、決して合理性の感情を引き起こすことはできないだろう。

人間性を前提とした倫理と道徳

 ジェイムズは倫理について、以下のように説く。「最後の人間が彼自身の経験を終え、その経験を語り終えて初めて、物理学におけるように、倫理学における究極的真理が存在しうるのである。」物事の本質の中には道徳というものは存在しない。道徳が存在するためには、人間性が存在しなければならないからである。「何らかの意識が善いと感じるか、あるいはそれを正しいと考えない限り、何物も善くも正しくあり得ない」のである。

究極的理念

 同時に、あるものを正しいとか善いと考える感情が存在する一方で、そのようには感じられないこともあるし、全く相反するものを正しいあるいは善いと考える感情も存在しうるのである。それでは、このような対立はどのように解決されるのであろうか。欲求されるものが正しく善であるとして受け容れられるとしても、可能な限り多くの欲求を満足させるものがそうだとする原理は、倫理や道徳の哲学の原理としてはやはりおかしいであろう。ここで、ジェイムズは「不満を最小にするという意味で、最高の全体を作る行為が最高の行為になる」、つまり「最も高く評価されるべき究極的理念は、その実現のために他の理念の破壊を最小限にとどめながら広まることができる理念であろう」とする。

信ずる権利

 マーフィーはここに、プラグマティズムの思想の一つのテーマの始まりを認めるのである。ジェイムズは、ある状況では、不十分な証拠に基づいてでも、あることを信じるということが正当化されうる、と主張するのである。これは、「不十分な証拠に基づいて何かを信じることは、常に誤りである」と主張する実証主義に反対するものである。しかし、この「信ずる意志」(ジェイムズは「『信ずる権利』とすべきであった」としている)については、彼の「信念」*を正当化する目的以上に、信念に過度の自由を認めたという非難を集めることになった。明らかに、この非難は的外れなものではある。

*ここでの「信念」とは、パースが定義した「信念とは、それに基づいて人間を行動させるもの(意見)」を指していると考えてよいであろう。

感想:

 哲学の受容と、宗教的体験である「悟り」を得ることを同一視することは適当ではないだろう。しかし、この章で示されたジェイムズの「ヒューマニズム(人間中心主義)」からは、善の精神、例えば道元が正法眼蔵の序文である「現成考案」で説く「悟り」による世界観に通じるものを感じてしまう。これは個人的な考えではあるが、究極的な決定論である仏法の教えに対して、禅は仏教の系譜に属しながらもアンチテーゼとしての立ち位置にあるのではないだろうか。そこに、プラグマティズムの伝統的哲学に対する立ち位置との重なりを見るように感じる。

2024年12月1日

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