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読書メモ:プラグマティズム入門

「反表象主義としてのプラグマティズム」
ローティが序で示したプラグマティズムの方向性
ジョン・マーフィー/リチャード・ローティ(1990年)/ 訳者:高頭直樹

プラグマティズム入門 パースからデイビッドソンまで

本書はジョン・マーフィーの著によるプラグマティズム入門書であるが、マーフィーの急逝を受けてローティーの手により出版されたものである。本文は全てマーフィーの原著であるものの、序はローティが記したものだ。その序である「反表象主義としてのプラグマティズム」は10ページ足らずの短い文章ではあるが、プラグマティズムの進むべき方向性についてのローティの考えが披瀝されている。

序 反表象主義としてのプラグマティズム

哲学における表象主義とは、ギリシア哲学以来のデカルトやカントなどに連なる伝統的な二元論に基づく考え方を指す。それは、人間が認識する経験的世界はあくまでも思考が描く実在に対する仮象であり、その実在(イデア)と仮象の間に明確な区分を求める立場である。その断絶により、主観に基づいて認識される仮象としての経験的世界を通じて実在を見通すことは困難とされる。従って「絶対的実在」を見出すためには、真に表象すること=実在と仮象を完璧に対応することを可能とする枠組み(スキーマ)が必要となる。そのようなスキーマは、パトナムが批判的に表現したように「神の目からの眺望」ともいうべき視座からのみ構築され得るものであろう。もしそのようなものを見出すのが哲学の目的だとするのであれば、それは「われわれの必要性や実践とは関係ないもの」である。

こうした表象主義に基づく不要な議論から距離を置くことがプラグマティズムの進むべき方向性である、というのがローティの考えであり「反表象主義としてのプラグマティズム」なのである。実際、パースによるデカルト主義の拒絶をはじめ、本書が取り上げるパースからジェイムズ、デューイ、クワインそしてデイビッドソンまで、プラグマティズムはこうした二元論を克服することを目指し、思考と行為の合一を企図して発展してきた系譜を持つ。パースが主張するように「探求の唯一の目的は信念の確定」なのであり、デューイによれば「信念とは実在を扱うツール=行動の格率/原則」なのである。そしてマーフィーは、反表象主義として「傍観者」の説明を放棄すること、すなわち仮象/実在の区分を放棄することを提唱している。

ここでローティが最も重要と捉えるのはデイビッドソンが表明した「信念は何物も表象しない」との主張/立場なのである。これは「絶対的真理」や「絶対的実在」といった語の意味を見出そうとする絶対主義に対して疑念を抱き、表象主義的概念を否定する姿勢とも言える。そこでは、パースが主張する目的に到達する唯一のプロジェクトとしての「探求」にも疑いの目が向かうことになる。実際、ローティはパースに対しても「表象主義の概念に囚われている」との批判を展開し、パースの「真理とは全ての人が一致する意見であり、その意見に表象された対象が実在である」との表明に対して強い反発を示す。ローティの見方/立場からすれば、「事物がどのように存在するか」といった問いや「真理を発見すること」などは、明確な目的(人間にとって価値のあるプロジェクト)とはなり得ないからだ。ローティは「パースは絶対主義を『探究の目的』と読み替えようとした」と評し、それは誤った方向であると断じている。

ローティは、このように反表象主義の観点を徹底することがプラグマティズムの進むべき方向性であると主張する。ローティは彼の主張を通じて、プラグマティズムの系譜に連なる哲学者たちが抱えてきた伝統的哲学に対する問題意識と取り組みを浮かび上がらせる。同時に、プラグマティズムが目指す伝統的哲学の軛を克服することの困難さを示すことにおいては、先達への容赦ない批判も厭わない。これが「プラグマティズム入門」に向けたローティによる「序」なのである。

感想

このようにローティーによる序では「プラグマティズムとは何か」については直接語らず、マーフィーによる本文を読むことに委ねている。そもそも、われわれ読者が「プラグマティズム入門」を手にするのは、「プラグマティズムとは何か」を知ろうとするからであり、その「何か」に明確なイメージや理解を持ち得ていないからであろう。プラグマティズムについては、「意味を明確にする方法」あるいは「行為を重視した思索方法」など、それぞれのプラグマティストが重視した側面から様々な捉え方がある。こうしたプラグマティズムの系譜に連なる学者たちの取り組みによって、プラグマティズムは功利主義、経験主義あるいは実証主義などとも結び付けられてきた。ローティによれば、こうした歴史的関連は徐々に打破されてきたとされる。その中で、プラグマティズムにおいて通底するのが反表象主義の立ち位置である(であるべき)、ということなのである。そのように「プラグマティズムとは表象主義ではない」あるいは「プラグマティズムとは絶対主義ではない」という否定形での立ち位置がプラグマティズムの本質であるならば、そこに「プラグマティズムとは何か」を捉えることの難しさの一端があるように感じる。

2024年10月10日


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