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読書メモ:プラグマティズム入門 第5章

第5章 ジェイムズのプラグマティズム
ジョン・マーフィー/リチャード・ローティ(1990年)/ 訳者:高頭直樹

プラグマティズム入門 パースからデイビッドソンまで

 本書はジョン・マーフィーの著によるプラグマティズム入門書であるが、マーフィーの急逝を受けてローティーの手により出版されたものである。本文は全てマーフィーの原著であるものの、序はローティが記したものだ。もともとは学部コースの開発のために準備された資料を書籍に編集したもので、パース、ジェイムス、デューイ、クワインそしてデイビッドソンまで、それぞれの著作を豊富に参照しながら、それぞれの関係性を明らかにし、プラグマティズムの系譜を辿る内容となっている。

第5章 ジェイムズのプラグマティズム

 第3章「パースのプラグマティズム」、第4章「草創期のプラグマティズム」に続いて、いよいよ第5章では「ジェイムズのプラグマティズム」が論じられる。前章ではパースとジェイムズの哲学の関係性とその対比が示されたが、第5章でも「プラグマティズム」という言葉でジェイムズが表現した彼の哲学の核心を巡り、マーフィーは改めてパースの理解との対比を参照しながら慎重に解説を進めていく。

  ここで本入門書の著者であるマーフィーは「パースのプラグマティズム」に立ち返る。(さすがに少しくどい。この章は「ジェイムズのプラグマティズム」ではなかったのか? それでも重要なポイントではある。)

パースの意味の原理

(PPM)もしも、「かたさ(hardness)」の合理的意味が示唆する全ての考えうる実験上の現象が正確に規定されるなら、「かたさ」の合理的意味の完全な定義が得られるであろう。

PPM: Peirce’ Principle of Meaning

 もちろん、「全ての考えうる実験上の現象」を規定することなど不可能であろう。しかし、「かたい(hard)鉱物」、「難しい(hard)質問」、「勤勉な(hard)労働者」、「激しい(hard)雨」、、、それぞれに何らかの知覚可能な効果があり、判断基準として機能するものがある。それらの基準の各々が、「かたさ」の合理的意味が付与される個々の合理的目的を統制するのである。

 われわれが「かたさ」に関して持つ観念は、こうした知覚可能な効果についての観念であるから、その全ての知覚可能な効果についての概念こそが、「かたさ」についてのわれわれの概念の全てである。「合理的な認識と合理的な目的の間の不可分のつながりを認識する」これがパースのプラグマティズムの原理である。このようにパースは、抽象的定義を通じた理解が合理的認識に到達する方法である、と考えるデカルト主義者に異を唱えるのである。パースによれば、合理的認識は合理的目的と不可分に結びついている。そして実験主義者であるパースにとっては、合理的目的を知ることとは、その観念の使用を統制する基準を知ることなのである。

ジェイムズによるプラグマティックな規則

  一方でジェイムズは、「思考は探究として活動し、信念に到達する」というパースの着想から始めている。では、なぜわれわれは信念に到達しようとするのであろうか。ジェイムズの論点は、信念は行動のために存在するということである。思考の表現はどのようなものであれ、それが決定する行為の形が思考の意味の本質的要素であると考える。パースは自身の教説を「かたさ」という属性を使って例示したが、ジェイムズが使った例示は命令法の文章である。

1. ドアを開けてください。(英語)
2. Venillez ouvrir la porte.(仏語)
3. 畜生、ドアを開けろ!(日本語)

 ここで1と2に対して、その指示に対応しドアを開けようとするのであれば、これらは同じ規則、対応の規則となる。しかし、3に対してはドアを開けることを拒否させるのであれば、これは全く別の規則、拒絶の規則となるのである。このように観念が合理的認識を実現するためには、単に実際的目的を知り、プラグマティックな規則を持てば良いと考えたのである。

 このプラグマティックな規則の例示は極めて簡単なものであるが、このようなプラグマティックな規則の獲得過程については、ジェイムズはより自覚的で知的な過程であると考えていたようだ。そして長期にわたる探求の結果、われわれの思考は信念にたどり着くのである。そこでプラグマティックな規則を手に入れることで、われわれの行動は着実かつ安全に始まることになる。その過程では、ある種の観念(例えば「かたさ」)については、われわれは多かれ少なかれ子供の頃から無意識のうちにその実際的目的を知っているのである。このような知識は自覚的な探求の産物ではなく、探求の前提条件と考えるのである。

ジェイムズの信憑性の原理

ある文が真となるような、あらゆる可能な世界と可能な生き方が正確に規定されうるならば、そのことによって、その文が言おうとすることの信憑性の完全な説明を手に入れることができる。

James’ Principle of Credibility

 ジェイムズはプラグマティックな方法について語る場合、この原理を応用する。ジェイムズはこれをパースの原理、すなわちプラグマティズムの原理と呼んだ。しかし、パース自身はこのような考え方は持っていなかった。パースは、先に見たように、ある抽象的用語がわれわれにとってどのような意味を持つかを決定する原理を提供したのであった。

ジェイムズの真理論

ジェイムズはここでもパースの理論に対応して自説を示している。

真理とは、すべての科学的探求者が究極的には一致すべきものである

PPT: Peirce’ Principle of Truth

 これがパースの真理論であり、ジェイムズはこれにより絶対的真理と呼ぶものを定義している。「絶対的」に真であるとは、それ以降のいかなる経験でも決して変更し得ないものを意味する。しかし、ジェイムズは「われわれは、今日手に入れることができる真理で今日を生き、明日になればそれを誤りだと呼ばなければならない覚悟」を求められていることを指摘する。

 実際、科学のあらゆる分野で多くの競合する理論があり、科学者自身も絶対的な理論などは存在しないことを所与として、ある観点から見て有用と考える理論を活用する。このような科学的論理の潮流が、デューイによる哲学的道具主義の背景であろう。

ある観念が、われわれが自分の経験のさまざまな部分を(他の部分と)十分に関係付けるのに役立つならば、その限りにおいて道具的に真である。

Dewey's Instrumental Truth

 ジェイムズは、道具的真理は「程度」の問題であり、社会的あるいは共同体的な考え方でもあると指摘する。この道具的真理の概念によれば、観念の真理性も「その観念が持つ本質的な特質ではなく、偶然的に真になるものであり、ある状況において真にさせられるもの」である。こうした「真になる」過程の途上にある観念は、一時的な真理として、相対的な真理として、ある経験の特定のある領域内のみの真理として、あるいは推定的な真理として語られる。

 われわれは多くの古い意見を蓄えているが、しばしば古い既存の意見を動揺させる新しい経験に遭遇する。こうした場面で、われわれは古くからの意見を救おうとする。信念の問題においてわれわれは保守的だからである。そして新しい真理は、移行期の仲介者、すなわち最小限の動揺と最大限の継続性を維持して、古い意見と新しい事実を調和させようとする。このようにジェイムズは観念が真理となる過程について語るが、そこでは裏付けられた経験が重要な役割を演じることが示されている。つまり観念とは、裏付けのある経験と新しい経験を最も適切かつ便利に仲介することで、自ら真であることを検証するのである。したがって、真理となる過程は相対的である程度流動的なものとなる。新しい真理が加わることによって古い真理が成長するというのは、主観的理由による評価である。その結果、「人間という蛇ののた打ち回った痕跡」を至る所で見ることになるだが、それはそういうものなのである。

われわれの思考において、「真であるもの」は全体として究極的に有用である。

ジェイムズの言う有用性(expedience)の意味は、適合性(suitability)、適切性(appropriateness)に関係するものである。

われわれの思考において、「全体として究極的に有用なものが真である」という信念を生み出す。

真と善は一体であり、真理とは信念という形で自らが真であることを証明できるものであり、明確な理由から善となるものでなければならない。そうでなければ、真理を追い求めることは、われわれにとってどのような意味があるというのだろうか。

「信念自らが善であることを証明でき、特定できる明確な理由から善である信念」は、真なる信念である。

ジェイムズにとって、善であることが自明な信念、つまり「われわれにとって信ずることがより良いことが明らかな信念」は真なる信念である。そして、真なる信念によって産み出されるものが真である。これが真理の定義である。その定義に誰も違和感を持たないであろう。ここにジェイムズの真理論は帰結する。

われわれの思考において、真であるものは「信念自らが善であることを証明でき、特定できる明確な理由から善である信念」の産物である。

James’ Theory of Truth

2025年1月13日

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