第12章 考え方8 人は何をどう与えたかで評価される
与えるための人生
人生の目的は何でしょう?
私たちは、いろんな目的を考えます。友人や家族とよい人間関係を築くこと、仕事が認められて出世すること、多くの財産を手に入れること、充実した余暇を過ごして楽しむこと、さまざまな小さな目的に目移りして、あれもこれも実現する人生がいい、と考えます。
良い人間関係、仕事の成功、財産、充実した余暇、趣味の楽しみ、どれもあって悪いものではありません。それが手に入れば、人からうらやましがられます。しかし私たちの歩みは、何かを手に入れることが目的ではなく、何を得たかで評価されるものでもありません。
サーバントが考える人生の大きな目的は、神から与えられたものを用いて人に仕えることです。何かを得ることに関心を向けることはありません。神から良いものを十分に与えられているからです。むしろ、与えられたものを十分に用いることに関心が向いています。
多く与えられた人は、多くを成し遂げることが期待されます。そのためにふさわしく取り組むことが必要です。少く与えられた人も期待されています。与えられたものを用いて、ふさわしく取り組むことが求められます。
サーバントは、与えられているものに目を向けて、何のために用いるのか、どのように用いるか、ということを常に考えています。
何のために用いるか
与えられているものの用い方には、大きくわけて二つの目的があります。ひとつは自分のために用いることです。自分が満足できるように、自分の楽しみのため、喜びのために、それを用います。
もうひとつは、他人のために用いることです。みんなで喜びを分かち合うため、大切な人の助けになるためです。お互いのために、喜んで差し出し、分け与えます。
与えられているものを自分のために用いることは、悪いことではありません。神は私たちによいものを与えてくれました。大いに喜び、楽しむためです。ただし、独占したり、他の人のものにまで手を出すのは、間違っています。
同じ与える行為でも、自分のエゴのために与えるのも間違いです。自分の言うことを聞かせるために与える、優位な立場を守るために与える、尊敬されるために与える。気前よく与えていたとしても、これは本来の与え方ではありません。
サーバントは、相手のために差し出します。相手によいものがもたらされ、相手が成長し、相手が成果を出すことができるように与えます。与える側が主役ではありません。与えられた側にこそスポットライトが当たります。それがサーバントの目指すところであり、喜びでもあります。
どのように用いるか
もうひとつの評価基準は、与えられているものをどのように用いるかです。心をこめて用いること、思慮深く用いることが求められます。
どれだけ差し出したかは問われていません。確かに多くを用いれば、より多くの人を助けることができるでしょう。少ないものでは限られた範囲でしか助けることができません。しかし、量の問題ではありません。どんな思いで差し出すのかが問われます。
有り余るほど多く与えられている豊かな人が、何も考えずに百のことをしたとしましょう。一方、わずかしか持たない貧しい人が、なけなしの犠牲を払って、心を込めて一のことをしたとしましょう。ふさわしいと評価されるのは、貧しい人です。量で言えば百分の一のことでしかないのに。なぜなら、心をこめてそれをしたからです。
与えるにあたっては、不安も、恐れも、葛藤もあるでしょう。それを乗り越えて具体的に行動します。足を運び、耳を傾け、声をかけ、手を差し伸べます。心をこめて仕えるのがサーバントです。
さらには思慮深さが求められます。サーバントは与えられているものを精一杯、最大限に活用することを心がけます。多くを与えられた者は、すべて差し出し、効果的な取り組みになるように努力します。少なく与えられている者も同じように、すべて差し出し、効果的な取り組みになるように努力します。一番よい形、与えられたことにふさわしい、効果的なものであるように考え、工夫し、実行するのです。
サーバントは、与えられているというよりは、管理を任されていると考えます。主人の意向に従って、一番ふさわしい形で用いるように管理し、運用に励むように任されていて、その責任を精一杯に果たそうとしているのです。