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宿題=残業

【言い換え】
親から教師に:うちの子に宿題を出して下さい。
教師から親に:子どもの宿題をチェックして下さい。
親から子どもに:宿題はもうやったの?
親から学童指導員に:宿題を済ませておいてください。

子どもから親に:宿題やりたくない!!

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親から教師に:うちの子に残業を出して下さい。
教師から親に:子どもの残業をチェックして下さい。
親から子どもに:残業はもうやったの?
親から学童指導員に:残業を済ませておいてください。

子どもから親に:残業やりたくない!!


これが現実に起きていることで、
子どもの側からすれば、理不尽で耐えがたいことであるということが、
なかなか大人に理解されない。

しかもその残業というのが、
確実に学力向上につながっているという保証はないし、
なぜ就業時間中に済ませられないのか、
という効率性の問題も十二分に問われているとは言い難い。

(反転授業や予習も、小学生に意味があるとは思えない。
 子どもたちがそれをしたいと思うように工夫できれば別。
 大村はまさんのことばにあるように、
 学校は「読んできたかどうかを調べる検査室」ではなく、
 初めて新しい知に出会える喜びを与えるところ)

もし、特定の先生だけがやり残したのだとしたら、
その先生が学ばせ方を考える必要があり、

もし平均的な先生が教えきれない分量が子どもたちに課せられているのだとしたら、
小学生に教えるべき内容の上限を下げる必要があり、

塾に行く子どもと差がつく、ということだとしたら、
そもそも学校と塾の関係をもっと真剣に考えなければならない。

とはいえ、基本は、子どもたちは、学びたいことであればいくらでも覚えられるのだから、やりたいと思うような勉強に変える工夫(各先生が、では課題も負担も大きすぎるので、教育方法の先生たちが考えて教えることが必要)が必要だろう。

親がなぜ、宿題、という形をとってほしいというのか、
という問いも必要だろう。
もし十分に授業の中で学べているのであるならば、
残業は必要ないはずなのだから、
そうやって、子どもの生活時間を縛りたいと考える親には、
もしかしたら別の目的やいわれのない不安があるのではないかと
勘繰りたくもなる。

もし、どうしても残業を課すことが必要なのであるならば、
それが当人の生活や将来にとって意味のある活動であって、
当人がそのことに興味関心が持てるものと結びついて
出されるのであればいいかもしれない。

人はしばしば、本当にそれが興味深いものであれば、
もっと取り組んでみたい、学びたい、探究したいと思うものだから。

そのような宿題の虎の巻がそのあたりにころがっていないかな。
たとえば、これ。

そもそも、残業が問題になるのは、残業することによって、その分、
家族や友人との時間や余暇の時間、
脳を休ませ次への活力を得るために必要な時間が損なわれること。

子どもたちにやらせることによって、
失わせるものの代償の大きさに気づかない大人が多い。

授業中にやった内容を自分でできない子どもにとっては、
家に帰ってわからないままにやる宿題は意味がなく、

自分でできてしまう子どもにとっては、
家で同じ問題をやっても意味がない。

丸暗記して試験で点数を取れる子どもが優秀と言われている
日本の社会はちょっとズレている。

人生においては、
学んだことを忘れた後に残るものこそが大事、
ということも先生たちにも子どもたちにも知られていない。

よく言われる「定着を図る宿題」とは、つまり、
方法を問わずに丸暗記するということにすり替えられている。

子どもたちは、
ポケモンのモンスターを全部覚えてしまう位、
日本中の電車を覚えてしまう位、
暗記ができる脳を持っているのだから、
興味があるものであれば、覚えられるはず。

だとしたら、きっと先生がやらせるべきことは、
繰り返し、意味も分からないまま丸暗記させることとか
棒読みさせることとか、ただひたすら書かせることではなくて、

「興味を持たせること」

それは、ドリルのような宿題、になるようなことではないはず。

意味のわからないまま、意欲もないまま、単純作業として
漢字の書き取りや計算問題に取り組む小学生たちをみると
(それは実は授業中もICTを使っても同じなのだけれど)、
その子たちの感性や意欲や生きることの楽しさが剥奪され、
恨みつらみや諦めが作られていることに、
忸怩たる思いを抱く。



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