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ハラスメントとマルトリートメント

古巣の日本教育心理学会にご指名いただいて、2024年7月28日に、
第13回 日本教育心理学会ハラスメント防止委員会企画講演 
「こころを傷つける指導とハラスメント―いのちを守るための理解と対応―」というオンライン講演の収録をしました。
2024年8月中旬より会員のみ対象で、オンライン配信があります。

(別途、福井大学を中心としたエデュケーショナルマルトリートメント研究プロジェクトの自主シンポジウムにも招かれており、9月15日(日)午後、教育心理学会大会@浜松で現地参加することになっています。会員の皆様は、お時間がありましたら、どうぞお立ち寄りください。)


収録時には、南風原朝和学会長始め、旧知の窪田由紀さん、委員長の山谷敬三郎さん他、委員の皆さんが勢ぞろいで聞いて下さり、それぞれコメントを下さるという貴重な機会でした。

今回のようにいろいろな学術団体でお話しさせていただく機会が得られることで、研究が進むでしょうし、情報が流れていくでしょう。私以外の人たちが検討を始め、語り始めるでしょう。私のお話ししていることが、陳腐なことになって、誰が言い出したか忘れられるようになるでしょう。

その日が早く来るように、今は一人一人に届くように話し続けようと思います。

さて、今回の講演は、教育虐待やエデュケーショナルマルトリートメント、そして社会的マルトリートメントの概念を明確にしつつ、学会員の皆様に理解していただけるようにプレゼンテーションを考えたものでした。

ハラスメント防止委員会の主催でしたので、一応、「日本における」ハラスメントとマルトリートメントの一般的な捉え方の違いも書いてみました。
2つの言葉はともに海外の言葉であり概念であって、それらの言葉が日本に入るときには、必ずしもバックグラウンドが同じではない中で戸惑いと共に入ってきたと思います。そのようなこともあって、もっと先行文献等にあたって丁寧に調べることが必要と考えています。まだ不十分ではありますが、ここに現時点での自分の思考プロセスの備忘録として掲載しておきます。

情報が入ってきた際には書き換えることもあると思いますが、現時点ではこのような形でまとめておきますので、どうぞご了解の上、お読みください。
よろしければ、さらにご教示ください。

【ハラスメント】 
 人を侮辱し、威嚇し、屈辱を与えることによって、相手に不快感を感じさせる、社会的にも、道徳的にも非合理な行為。単なる嫌がらせというよりは、人権感覚のなさ、強者から弱者に対する正当な行為として、ときには公然と行われることが特徴的である。加害者が、支配的な立場にあり、その問題性に気づいていないからだろう。また、しばしば、傍観者もその深い問題性に気づかないことがある(たとえば、セクハラ・・・痴漢やカレンダーのヌードなど、日本では長く「あたりまえ」になっていた)。そのため、さまざまな場面で、継続的にあるいは反復的に行われる。
 ハラスメントは、相手の属性や特徴(女だから、性格が弱いから、仕事が遅いからなど)を理由にするなどして、(身体的な行為を伴うとしても)特に心理的な面で苦痛を与えるもので、弱者に対して差別的に行われたり、相手の権利を無効化したりするため、相手は、苦痛、不安、動揺、脅迫された感覚を覚える。
 また、行為者が自覚を持ちにくく、むしろ教育的行為、指導的善意、好意、正義から行っていると思っているため、指摘されると驚いたり、むしろ怒ったり、無視したりすることもしばしばである。自分の善意を理解してもらえないと嘆くことさえある。しかし被害者は明らかに嫌がっている(が、それも「嫌よ嫌よも好きのうち」「喜んでいる」というような身勝手な解釈が長年なされてきた)。
 隠れて行われるセクハラやアカハラなどもあるが、これらは加害者が「問題性」を多少なりとも認識している可能性があり、それゆえの閉鎖性を伴うものである。そのようなハラスメントは、マルトリートメントと呼ぶこともできるだろう。

【マルトリートメント】
 虐待。ハラスメントと基本的な特徴は同じである。
 しかし、家族や(日本の)学校や施設の中というような、外から見えにくく、関係性が深く狭い世界の中で、高齢者や児童というような、圧倒的に力の弱い者がターゲットとなる点が、職場や組織などにおいて大人の間で時に公然と行われるハラスメントと異なる。また、相手の属性というよりは、立場や関係性によって、発生する。相当な被害を被っていても、被害者が、自分が被害者であることを認識できない場合、自分に一部でも非があると思わされている場合があることも、被害者が明白に嫌がっているハラスメントとは異なる点であろう。
 さらに、家庭内などより親密な関係にある者の間で行われるマルトリートメントは、心理的な行為も含め、特にドメスティックバイオレンスと呼ばれる。バイオレンスには、身体的、精神的、性的な行為のいずれもが含まれる。

※ 以下は、教育心理学と自分との関係性をまとめた文章です。
  関心のある方はどうぞ。
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大学、大学院は、教育心理学科、教育心理学研究科でした。
中学の頃から、ソーシャルワークや臨床心理学、精神医学を学びたいと思っていた私でしたが、私の学生時代、つまり1980年代にはそれらを専門として進学できる大学が日本にはあまりなかったのです。

高校2年生のときに物理が全くわからなかった私は、医学部進学を選択肢から外し、臨床心理学が学べる場所を探しました。当時、精神科的なソーシャルワークを学ぶことはさらに難しいとわかっていましたので、ソーシャルワークの選択肢は早期に消えていました。

臨床心理学は、上智、ICUといった私立大学で学べると人づてに聞きましたが、国立大学で学べるところがありませんでした。スクールカウンセラーの制度もまだなく、東京都内でも2-3の先進的な私立女子高校に生徒相談室がある程度だった時代です。
(今、これだけカウンセリングの需要があって、どこの相談室も予約が入れられないような状態になるとは、当時は考えられませんでした)

それで、教育心理学科の中で臨床心理学が少し学べる、大学院に行けばさらに学べるということで、まずは教育心理学科に進学できるように、一年浪人して東大に入学しました。

最初の2年間は教養学科でしたので、専門的な学問が学べる授業は取れませんでした。社会学の見田宗介ゼミが心に関係ありそうだったので、出てみたところ、そこで禅の十牛図やワークショップに出会いました。一方、今だから時効?というか当時は割とよくあったことなのではないかと思いますが、東京理科大学の國分康孝先生の講義に潜り込んで、エンカウンターグループについて学ばせていただいたりもしました。

大学2年の後期に、専門学科に進学するにあたって、本当は臨床心理学を学びたいのだと先輩に話したところ、当時はご存命だった佐治守夫先生の言葉として、「大学生の間に幅広い人生経験をしておくといい。臨床心理学の勉強は大学院に入ってから」という話が戻ってきました。それはその通りと思ったのですが、自分自身が抱えていた問題が大きかったので焦っていた私は、何かできることはないかと思い、当時、臨床心理学関係の勉強ができる数少ない場であった安田生命社会事業財団の精神保健講座を探し当てて、その中のいくつかの講座を受けたり、学生相談室主催の「自己理解のための合宿」に参加したりしました。

大学4年の後半になって、幸いなことに、統計学の芝祐順先生に卒論のご指導いただく機会を得ました。先生は統計的なものの見方を教えてくださいましたが、それは数値を操ることでは全くなく、人としての勘ともいえるようなものを大切にしてデータを見る方法でした。また、精神科的な問題を抱えた学生の存在を知ったとき、他の誰よりも個人としての誠意ある対応をしてくださったのは芝先生でした。
これから臨床心理学を学ぼうとしていた私にとって、それは非常に大きな体験でした。芝先生には、研究と臨床の神髄を教わったように思います。

卒論を提出し、やっと大学院に進学できることになったのですが、なんとその3月で佐治先生はご退官。幸い、4月から関東中央病院精神神経科思春期病棟で研修できることになり、私は大学院よりもむしろそちらで精神分析の治療実践に触れることを中心とした生活に入りました。

その後、徐々に触れる機会が減っていった教育心理学の世界だったのですが、当時学んだノートを読み返すと、ずいぶんとしっかりとした内容を教わっていたのだと思います。実は、当時の授業ノートは45年近く経った今もまだ全部取ってあります。いつの間にか、私の中の基礎となっているような内容がノートに書いてあって驚きます。

その後、教育心理学会からは離れていましたが、大学に就職してからも20年以上、授業で私なりに教育心理学を教えていました。オリジナルな教え方をしており、何回かその記録を勤務大学の紀要にまとめたりもしましたが、残念ながらそのまま消えていくことになりそうです。いつか何かの機会を見つけて、伝えられること、誰かが活用できることを残していきたいと思います。

※ 写真は室伏淳史氏撮影 2022 7/10 河口湖 ラベンダーとみつばち

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