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三好達治の「大阿蘇」と 山田今次の「あめ」

「雨を聴く」のはなかなか難しい
外出していれば別だが
家にいると大雨か風の強い日の窓ガラスに当たる音くらいである
多少暇があって、窓を開けて聴くこともあるけれど。

「雨は蕭々と降つてゐる」という三好達治の詩を思い出したのは
教科書展示会で「まだ「大阿蘇」が載っている教科書がある」と思ったからである。
「大阿蘇」という詩にはあまりなじめなかった。
中学生の時も、教えていた時も。
三好達治の詩で好きな詩もあるけれど、大阿蘇については
「だからなんだ」という気になったものである。

でも去年阿蘇山行ったなぁ と思い出した。

草千里

大阿蘇         三好達治

雨の中に馬がたつてゐる
一頭二頭仔馬をまじへた馬の群れが 雨の中にたつてゐる
雨は蕭々と降つてゐる
馬は草をたべてゐる
尻尾も背中も鬣も ぐつしよりと濡れそぼつて
彼らは草をたべてゐる
草をたべてゐる
あるものはまた草もたべずに きよとんとしてうなじを垂れてたつてゐる
雨は降つてゐる 蕭々と降つてゐる
山は煙をあげてゐる
中嶽の頂きから うすら黄ろい 重つ苦しい噴煙が濛々とあがつてゐる
空いちめんの雨雲と
やがてそれはけぢめもなしにつづいてゐる
馬は草をたべてゐる
艸千里濱のとある丘の
雨に洗はれた青草を 彼らはいつしんにたべてゐる
たべてゐる
彼らはそこにみんな靜かにたつてゐる
ぐつしよりと雨に濡れて いつまでもひとつところに 彼らは靜かに集つてゐる
もしも百年が この一瞬の間にたつたとしても 何の不思議もないだらう
雨が降つてゐる 雨が降つてゐる
雨は蕭々と降つてゐる

青空文庫

この「もしも百年が この一瞬の間にたつたとしても 何の不思議もないだらう」というのが肝らしいのだが、中学生の自分には響かなかったらしい。教えてくれていたのは若い先生だったが、きっと響いていなかったと思う。教科書で教えたのは多分何回もなかったと思うけれど、若かった時の私にも響いていなかった。大自然のイメージもなかった。

今の、年取った私に響くか、と言われると微妙である。
「好きな詩」のリストには入れないと思う。

ただ、生徒たちに理解させるには、仮想現実で、雨の日の馬たちの風景を見せるはよいかもしれない。あの辺の広さなどは想像できないかもしれない。(晴れた日の阿蘇山の煙も見せたほうが良いとは思う)
それをしばらく体感してから、みんなで朗読してみればよいと思う。

画像を見せるのが言葉の敗北だとはもはや思わないのである。
実写ではなく「イメージ映像」がふさわしい詩もあるかもしれないけれど
字面だけではわからないことの方が多い。まして13年くらいしか生きていない若い人には、画像やイメージも大切だと思う。


次の「あめ」という詩は全然違う。
大雨の中の登下校はだれしも経験したことがあるし
ぼくらのくらしをたたく という表現も、わかりやすいと思う。
だがこの詩はどの教科書にも掲載されていないと思う。

あめ       山田今次

あめ あめ あめ あめ
あめ あめ あめ あめ
あめはぼくらを ざんざか たたく
ざんざか ざんざか
ざんざん ざかざか
あめは ざんざん ざかざか ざかざか
ほったてごやを ねらって たたく
ぼくらの くらしを びしびし たたく
さびが ざりざり はげてる やねを
やすむことなく しきりに たたく
ふる ふる ふる ふる
ふる ふる ふる ふる
あめは ざんざん ざかざん ざかざん
ざかざん ざかざん
ざんざん ざかざか
つぎから つぎへと ざかざか ざかざか
みみにも むねにも しみこむ ほどに
ぼくらの くらしを かこんで たたく

詩の中にめざめる日本(岩波新書)

この詩を読むと、ああこんな音を聴いたことがあったなぁ と思うのである。擬音のリズムもつい口ずさんでしまう。
異常気象では、掘っ立て小屋でなくたってびしびしたたかれているだろうと思うと何とも言えない。
そういえば、学校の体育館とかは雨の音は響くかもしれない。





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