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旅をする木


 表題の「旅をする木」では、アメリカの原子力委員会が、かつて核爆発で実験的な港をアラスカに作ろうとしていたが、それに反対した人がいる。その人の本が好きだった筆者は「会ってみたかった」と、語る。
 そんな実験でアラスカが壊されなくて良かった、と心から思う。だがしかし、それが1960年のことらしい。日本に原爆落として15年後なのに。大きなダイナマイトくらいにしか考えていない人はいるのであった。

 「旅をする木」はトウヒという木だ。筆者もまた「旅をする木」という一章から始まる本を読み、そこから名を借りたのだった。鳥に落とされた種が川沿いの森で育ち、洪水で流され、やがて薪ストーブにくべられる。こうした命の循環もまた、アラスカらしさとして星野が好むものなのだ。

 星野道夫の「アラスカとの出会い」が中学三年の教科書に載ったのはいつだったか。受験の三学期にやる範囲だから、さらっと読むだけという担当も沢山いたのではないかと思う。
 光村の教科書は、一学期の「握手」(井上ひさし)で、十五歳で養護施設に入る少年の話を扱い、三学期にこの「アラスカとの出会い」があるという、大人になるべき年頃の子にぴったりの選択だ、と私は当時思ったものだった。
 
 彼の旅は、「16歳のとき」のアメリカ旅行から始まる。一ドル360円の時代の一人旅である。帰国後、日本の日常に飽き足らず、アラスカを目指すのだ。「アラスカ・シシュマレフ村・村長」という宛名で手紙を書くその行動力と旅に対する熱情に圧倒される。
そんな彼を受け入れるシシュマレフ村。
 「アラスカとの出会い」の中に電車の窓から見える窓の中の団欒に胸を締め付けられるような思いがするとある。窓明かりの一つ一つに暮らしている人々がいる。それぞれの人生があるし、私たちは全ての人とは巡り合わない。そんなことを考えるのである。
 その後彼は大学時代に何か月か居た村に暮らすようになる。やがて彼は高校時代にアラスカと出会うきっかけとなった写真家と一緒に仕事をすることになる。
 「人生はからくりに満ちている」人や物事や風景との出会いは、偶然であり必然でもある。ということを授業では伝えたかった。

 星野道夫の文章は詩のようだ。その後の彼の若くしての死を考えると、その「死」を内包した美しさが通奏低音のように流れている感じがしてしまう。
 アラスカには死が身近にある。生き物の命をいただいて生きている。
ブッシュパイロットの死も彼はよく見聞きしていただろう。人は死ぬ。だからいつも「より良く」を目指す。そんなことを誰も口にはしないけれど。
 彼がまだ大学生の時に、中学時代からの友人を亡くしていることも「歳月」で語られる。
 身近な人の死を何回も経験する心情を言い表すのは難しい。「透徹した」という表現があるがそんな言葉が似つかわしいのか。
 余命のある病気でもないが死すべき自分と常に向き合っているのだ。

 「命をいただく」というリスペクトがある土地。厳しい気候の中で、ほんの少しの巡り合わせで人が亡くなる世界。必死で生きていく植物も動物も何もかも美しい。それがアラスカだ。美しいけれど、「住む」という選択をする人は多くない。
 彼の死は早すぎたが、この本の中で息子の誕生を語り、自分の人生の「持ち時間」を意識し始めたと語る。
 最後の章が「ワスレナグサ」小さな青い花がアラスカの州の花であるという。我々読者にとっては、星野道夫の存在のようだ。毎年同じところに必ず花を咲かすのだ。

 「旅をする木」は、何店かまわった大きな書店にもなく、私が初めてオンラインで買った書籍である。私が購入したのはハードカバーの本の第14刷。ノートを始めて間もない身だが、まさか今年の課題図書の中にこの本があるなんて、とちょっとびっくりした。写真集も一緒に楽しんでいたせいか、挿絵も写真もないのに、映像が浮かんでくる。
 「死」とどう向き合うか、ということまで含めて、若い人に読んで欲しい本である。


#読書の秋2022


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