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サバイバーの回復を「成長」と呼ぶことについて

過酷な環境で育って心にたくさんの傷と怒りを抱えている人が、ある時期、心に溜まったものが溢れ出してコントロールできなくなることがあります。
異常な環境で長く過ごしたなど何らかの事情があって、普通の会話や人間関係をあまり経験できなかった人が、正常かそれに近い環境に移った後もしばらくは人との会話の仕方がわからなかったり、人間関係でトラブルを繰り返したりすることがあります。

そんな人が、感情の暴走が落ち着いてきたり、会話の仕方や人間関係の作り方が上手くなってきたりすると、周囲の人から「成長した」と言われることも多いかと思います。

「成長した」…この言葉に、私はすごく引っかかりを覚えるのです。

成長したというのは前より良くなったということで、使われる場面によっては純粋な誉め言葉として受け取れますが、精神状態や人間関係の能力が改善したという意味で使う時は、多くの場合「前はダメだったけど」という意味を含んでいると思います。褒めているようで実は馬鹿にしている、上から目線の言い方に私には聞こえてしまうのです。その人がどうして「前はダメだった」のかに対する想像力も、思いやりもない言い方に聞こえます。

言われた方は、成長したと言われて喜ぶより更に深く傷つけられることの方が多い気がしますし、対等な人間として扱われていない、見下されたと感じる可能性も高いと思います。それに加えて(言った人は何も分かっていない。きっとこの人はそこそこ幸せな環境で育ったんだろうな。だからそうでない人の気持ちが分からないんだな)と思うかも知れません。

心の傷や怒りを爆発するまで溜め込まずに済んだ人、普通に生きていたら歳相応の会話力や社会適応能力が自然に身に付いたという人は、たまたまそうなる環境で育ったからそうなれたわけです。環境だけでなく遺伝などによる性質も影響すると思いますが、これも本人が努力で獲得したものではありません。そしてその生まれ持った性質を潰されずに済んだのは、潰されない環境にいたからです。

同様に、そうなれなかった人はたまたまそうなれない環境で育っていたり、何らかの事情があったりしたわけです。

要するに、本人が努力したかしなかったかで差がついたわけではないんですよね。こういう言い方は良くないかも知れませんが、ぶっちゃけ、育つ過程で色々な条件に恵まれたか恵まれなかったかの差だと思います。特に、若い時ほど本人の努力よりそれまでの環境の影響の方が大きい筈です。

恵まれなかった人が恵まれた人達にようやく(多くの場合大変な努力をして)追いついてきたら、それを「成長した」と呼ぶのは、何か違うんじゃないかな…と思います。もし何か言いたいなら「傷が癒えた」「回復した」と言ってほしいですね。


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