わたしだけが、知っている。福井城の百間堀をまちあるき!(1)
【福井城の百間堀とは?】
福井城は、徳川家康の二男である結城秀康が築いた城です。天下普請によって造られ、家康自らが縄張りしたとも言われる立派な城でした。しかし明治維新とともに埋め立てが始まり、当時の姿を残すものは本丸の石垣だけになってしまいました。
でもまちなかを歩いてみると、その痕跡が窺えるところもあります。今回と次回は「百間堀」の跡をたどって、その大きさを実感してみたいと思います。
福井城の「百間堀」とは、城内を南東と北西に分けて足羽川へと繋がる、大きな堀のこと。もとは吉野川と呼ばれた自然の河川で、これを堰き止めて堀にしたと言われています。絵図で確認すると、青々と水を湛えた百間堀が本丸の南に横たわり、威圧感を与えています。
江戸時代の百間堀の様子。今の福そばさんの辺りから本丸の方向を見ると、このように百間堀が広がっていたようです。本丸側には高石垣が築かれるとともに櫓も見え、防御力はとても高そうです。また、戦のことを抜きに考えると、水面に浮かぶように見える天守閣は、さぞかし壮観だったでしょうね。
【今見られる百間堀の痕跡 ①電気ビル跡地】
まずご紹介したいのは、電気ビル跡地に整備されている福井城の石垣です。
写真から分かるように、現在は更地になっていて、江戸時代の福井城や百間堀の様子を窺えるものは、残念ながら残っていません。
しかし、電気ビル解体の際に、百間堀沿いの土塁と石垣が発見されました。その結果として、敷地の東側から南に向かって、百間堀が広がっていたことが分かります。
【でも、分かりにくいですよね…】
ただ、これではなかなかピンと来ませんよね。
それでは、分かりやすくするためにさっきの写真を少し加工してみます。薄い青色の部分が、百間堀の位置です。
これで多少は百間堀をイメージできたでしょうか?
さて、一旦石垣から離れて、まわりを見渡してみる。
通り過ぎる人たちは、ここに堀があったことなど気にも止めず歩いています。
もういちど整備された石垣の前に佇み、見えない百間堀をイメージしてみる。
今この瞬間、ここに堀があったことを、わたしだけが知っている。
ちょっと「ムフフ」という気分になりませんか?
【今見られる百間堀の痕跡 ②県庁線】
次にご紹介したいのは、JR福井駅と県庁を結ぶ道路「県庁線」です。こちらもなんの変哲もない道ですが、ここに百間堀の痕跡があります。
試掘調査で確認された堀の跡を、笏谷石(※)製のタイルで表示しています。解説板を見ると、現在地が百間堀のどのあたりなのか分かります。よく見ると、解説板の台座も笏谷石ですね!おそらく堀の石垣に使われた、江戸時代のものでしょう。刻印も施されています。
※笏谷石:福井市の足羽山周辺で産出される青色の美しい石。福井城の石垣はすべてこの石で造られている(笏谷石については、いつか改めて書きます)。
【やっぱり、分かりにくいですよね…】
それでもピンと来ないですよね。こちらも加工してみます。
こうすると、幅20mくらいの堀が広がっていた様子が分かると思います。
なんの変哲もない道から、江戸時代の福井城の姿が浮かび上がってきませんか?
ここでも、そのことを知っているのはわたしだけ。ムフフ。
【まとめ】
百間堀の痕跡を、まちなかを歩きながら2か所見てきました。冒頭で確認した、江戸時代の絵図を見ながら歩いてくると、具体的な姿は残っていなくても、百間堀の規模がなんとなくつかめるのではないかと思います。次回も絵図を頼りにしながら、更に南に向かって痕跡をたどっていきます。普段何気なく歩いていた、こんな場所にこんな痕跡が!?という場所もあるかも。次回もよろしくお願いします。
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