「教える」に本気で向き合うこと(1)
歳をとったなあ、と感じる瞬間がある。
昔よりも早く階段で息切れするようになったり、疲れが取れなくなったりといった、「身体的要素」も多分にあるのだが、
ここ数年で特に感じている変化は、
【教わる】機会が減っていき、【教える】機会が増えていく
ことだ。
オトナになると、なんか「ジブンより若い人に、教える」場面が、しれっと自然に設定されていて、当たり前のように、それを責任として求められることがある。
勿論、人それぞれの事情…どのような仕事に就いているか、どのような社会的立場に立っているか、等々にもよるのだろう。
儂はいま、大学でゲスト講師したり、カルチャースクールで文化的なお稽古ごとをしたり、ビジネスマン向けの研修をつくったりしている。
お金も発生する、社会的責任もある状態で「教える」ことに取り組む機会に恵まれ、そこに立つことを選択している儂は、教えるという行為について、その質と方法論について、まじめに向き合うべき立場にいる。
でも、儂なんかよりね、
世のお父さん、お母さんのほうがすごいと思うわけ。
儂と同年代にも、子供を持ち、「親」になった人がたくさんいる。
「我が子を育てる責任」のなかで、ヒトとしての下地…言語、倫理、マナーやエチケットなどを教える「責任」を負っているはずだ。
世の中の、お父さん、お母さんの皆々様がた。
あんたたちゃ、すごい。
儂が背負っている「教える責任」…専門技能や専門教養は、その下地の上にしか定着しえないものですからね。
儂は、専門技能を教えるものとして、プロとして恥ずかしくないように、と同時に、世の中の、お父さん、お母さんの皆さま方にも恥ずかしくないように、矜持と意識をもって、「教える」ことに取り組んでいきたい。と改めて思ったわけです。
でね、そういう意識を年明けくらいから強く持っているのですけれど、同時に、
※ こんなにも多くの人が、「親」として「教える」側の立場に立つのに、
「教え方」について、ちゃんと学んだことがある人
は、どのくらい居るのだろう。
っていう疑問がアタマを巡るわけですよ。
ぶっちゃけ「子供ができちゃった」ら、「親」になるじゃないですか。
すべての親が「教えること」に向いているわけでもないし、「教え方」を勉強したことがある訳ではない、じゃないですか。
にもかかわらず、子供の躾がうまくいかないのは「親の責任」にされがち、じゃないですか。
うまく教えるって、そんなに甘いことじゃないし
「教え方を学んだことがない 親」に、
子どもの躾が甘いことの責任を問うのは
ちょっと可愛そうなんじゃないのかな、
と思うわけです。
お父さん、お母さん方に「教え方」を「教える」こと。
「教えるのが苦手なお父さん、お母さん」には、サポートに入ってあげること。それが必要なのじゃないのかね、と。
社会だの地域だの制度だので、構造とデザインで解決するべきなんじゃないのか、と思うわけですよ。
儂は、「教える」ということの難しさと奥深さから逃げたくない、目をそらしたり諦めたりしたくない、と考えている。
「教えかた」の追求と研鑽に、きちんと取り組んでいきたいし、いっしょに向き合ってくれる人も探している。
それは学校教員とか塾講師だけの世界じゃない。職場でOJTする先輩も、ひとの親 であるお父さんお母さんも、みんな、その仲間なんじゃないかな、と感じている。
なので最近、ちょっと基礎研究の本とかも読んでみたり、気になる先輩教育者の講義や授業を見学する機会をつくったりもしている。
…
ちなみに、「主体的な学び」とか「アクティブラーニング」とかの素晴らしさは知っているつもりだけど、それを言い訳に「教える」ことから逃げてる連中がいることも儂は強く感じている。学校や学会なんかで、そういう人間を何人も見てきた。そういう話を次回はすこし書こうかな、と思う。