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映画『華麗なるギャツビー』、揺らげば揺り戻すのが世の常人の常

自由は不自由

君主制の時代、精神疾患を抱える人はほとんどいなかった。みたいな話をどこかで聞いたことがあるようなないような、うろ覚え。
そんな史実についてのエヴィデンスは持っていないけど、でもなんとなく「自由だからこそ精神的に不自由を感じる」という話には、たしかに、と思わさる。

十代の頃、制服のある学校で心底良かったと思う(当時も思っていた)。着る服を選んだり買い揃える必要がないことは、オシャレよりもCDにお金を使いたいぼくにとっては有難い状況だったから。

専門学校で学生募集を担当したていた頃、たくさんの高校生と進路について話をしたわけだが、強い意志を持ってたくさんの情報を自ら集めて情熱的に進路について語る高校生たちの多くに共通していたのは、親からは反対されている、ということだった。
逆に、進路について真剣に考えてはいるものの何に重点を置いて決めたら良いのかわからない、と悩んでいる高校生たちの多くに共通していたのは、親が「お前の人生だ、お前の好きなように…」と言っている、ということだった。

自由って、ピッチャーを目指している野球少年が壁のない空間にボールを投げて練習しているようなものなのかも知れないと感じている。投げた球がどこに向かって飛んで行ったのか?もわからないし、跳ね返って戻ってくることもなければ自分の投げた球はストライクゾーンに入っているのかどうか?もわからない。そんな練習ばかりじゃ、いつまで経っても自信を持って「ピッチャーやります」って言い出せないだろうなぁ、と思う。
壁があるからどこに投げればいいのか?の検証ができるし、反対されるからこそ自分の進路について「なんで?」「なぜそっちじゃなくてこっちの進路なの?」っていう比較検討が深まる(反対する人を説得するためにも考えざるを得ない)。

押し付けられれば、それを強かにやり過ごすための知恵も生まれる。制約されれば、それに従うだけで(とりあえずは)正解を出せるし、その正解に不満があっても「制約しているやつがアホだ」と文句をいうだけで済ませられる(それ以上のことを自分で発案する必要もないし、発案することに意味もないから)。
自由だからこそ、悩むし揺れるし、自分の中に潜り込まざるを得ない。だから病みやすくなるんだろう、と思う。

映画『華麗なるギャツビー』の紹介

さて、昨夜見た映画『華麗なるギャツビー』の話に入る。
この映画は、第一次世界大戦後の好景気に浮かれたアメリカに生きるジェイ・ギャツビーという華麗に生きた男性を側で見ているキャラウェイという男性の視点で描いた作品。

この映画の主要な登場人物は、以下の通り。
ギャツビーは、毎週末にお城のような自分の屋敷で誰でも参加できる盛大なパーティを開く、財源不明の謎の大富豪。
トムは、親の遺産と事業を継いだ実業家。
デイジーは、良家(富豪)の娘で、トムの妻。ただ、トムと結婚する前にギャツビーと恋仲だったが、ギャツビーが失踪したため、失意のうちにトムと結婚することを選んだ。
キャラウェイは、もともとは作家を目指していた(と思われる)が、それを諦め証券マンとして働いている。ギャツビーの屋敷の隣のコテージを借りて住んでいる。デイジーのいとこ。

この映画のポイントは、以下の通り。
①デイジーは、ギャツビーに惹かれていたが、ギャツビーが失踪したことでしかたなくトムと結婚した。しかし、トムとの夫婦生活は、トムは愛人も作り自由に生活しているが、デイジーにとってはトムの支配下に置かれたような状況だったため、トムに対する不満はあった。
②ギャツビーがデイジーの前から姿を消したのは、良家出身のデイジーの夢を叶えるためにはそのとき(失踪する前)の自分ではだめだと感じたためだった。端的に言えば、(いかなる手段であっても)お金持ちになって、デイジーの夢を叶えられる、デイジーに「見合った」自分になってから再びデイジーの前に立ちたかった、ということではないか、と思われる。
③ギャツビーが毎週末にパーティを開くのは、デイジーと再会し、(デイジーがトムと別れて)結ばれるためだった。
④キャラウェイは、ギャツビーの人柄に惹かれていたため、ギャツビーとデイジーが結ばれることを願っていた。そして、そのために二人が再会する場を作ったりギャツビーに助言したりしていた。
⑤ギャツビーと再会したデイジーは、再びギャツビーに惹かれて何度も密会を繰り返し、ギャツビーと一緒になることを望む。
⑥ギャツビーは、デイジーとトムと話し合う場をもち、そこにキャラウェイを同席させ、デイジーからトムに「あなたを愛したことはない。あなたと別れてギャツビーと一緒になる」と伝えさせようとする。
⑦デイジーは、「あなた(ギャツビー)のことは愛しているが、トムのことを愛していた過去は変えられない。」と言う。

デイジー視点の『華麗なるギャツビー』

キャラウェイ視点で描かれた映画なので、この時代の好景気に浮かれる富豪の勃興と、女性に翻弄される男性の悲哀を描いたように見えるけど、どうもそれだけじゃない気がした。

この映画のストーリーをデイジー視点で想像してみた。

良家で生まれ育ったデイジーは、出会う人も生き方もある程度予定されている、制約の多いものだった(と思われる)。豊かな未来を約束されるのと引き換えに、「なぜ?」という疑問を持つことも、どう生きたいのか?を考えることも否定されていた。
ある日パーティで、それまでに出会った人たちとは違う魅力を持った男性、ギャツビーと出会った。ギャツビーから感じられるものは、「自由」だった。だから惹かれた。しかし、ギャツビーは理由も告げずいなくなってしまった。
自由を求めることや、自分らしく生きるようとするからこそ悲しくて辛い現実と向き合わなければならない。
だから、それとは真逆の生き方として、トムとの結婚を選んだ。それは「悲しくて辛い」と真逆の現実、つまり「楽しくて幸せ」な現実になるというわけではなかったが、でもそれは自分自身の意思や選択のせいではなく、自分の自由を奪う誰かのせいであり、自分に課せられた制約のせいなのだから、自分自身を責めなくてもいい。それが救いだった。
そんな制約の中での生活が5年経ったとき、ギャツビーが再び自分の前に現れた。
あの時に捨てた、いや諦めていた「自由と自分らしさを求めること」の魅力が再び蘇る。
でも、ギャツビーかトムか?という選択を迫られた時に、自分はギャツビーという人を愛していたのか、不自由や制約「ではないもの」のシンボルとしてのギャツビーを求めていたのか?と考えた。その結果、自分が愛のためにある方向に進んでいたのではなくて揺らいでいたのだ、ということに気づいた。
揺らぎは大きくなったり小さくなったりすることはあっても、一方向に進み続けることはできない。A方向への揺らぎは、A方向とは反対のB方向への揺らぎがなければ生じ得ない。「トムを愛していた過去は変えられない」というセリフは、そのことを説明している。

ここからはぼくの私見だけど、たぶん、愛していたのはトムでなくてもいいじゃないの?と思う。つまり「不自由と制約下にあった自分」があるからこそギャツビーに惹かれたのであって、そのロジックで言えば、ギャツビーでなくてもよかったのかもしれない。とも思わさる。
ギャツビー自身もキャラウェイも、ギャツビーに人を抱擁するようなが魅力、何もかもを認めてもらえるような魅力を感じるからデイジーは惹かれていたと思っていたようだけど(デイジー自身そう思っていたかも知れないけど)、ギャツビーはデイジーがそれまでに出会った人たちと違っていた、という一点で惹かれたのではないだろうか。つまり、モノマネタレントは「真似されるタレント」なしに存在し得ないのと同様に、トムのようなデイジー周辺の富豪の存在なしにギャツビーとデイジーの恋愛は始まりもしなかったんじゃないの、というのがぼくの想像するところ。

揺らいでいるのか、進んでいるのか

この映画の最後は悲劇的なものだけど、魅力的な女性に翻弄された男性の悲劇的な最期を描いた映画、という見方をすると、ずいぶんつまらない映画だな、と最初は思った。
でも、ふと途中に出てきたデイジーの「生まれた子が娘でよかった。バカに育って欲しいと思った。」っていうセリフがひっかかったので、デイジー視点でこの映画を反芻してみた。その結果が、上に書いた話。

悲しみは喜びという揺らぎに対する揺り戻しであって、デイジーの揺らぎを産んだのは、デイジーの意思や思考だったから。

パリ・コミューン崩壊後のフランスに皇帝制を望む声が強かったように、またフランス革命後のフランスにナポレオンが現れたように、揺らぐものは揺り戻すもんだな。
揺らいでいるのか、それとも一方向に進んでいるものなのか?を見極めるには、(キャラウェイのように)その動きの中に身を置いてしまっては難しいもんだ。
おや、ちょっと待て。
自分の過去から現在までを振り返って、キャラウェイ的視点で物語っていないか?とちょっと焦ってしまったけれど、それはそれで避けようもない気がするから、あとで振り返って、「あぁ、あのとき自分はキャラウェイだったなぁ」と感慨深げにnoteに書くしかないのかな。

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