映画『三度目の殺人』
ググるとたくさんの感想やネタバレ記事、「真相は?」みたいな記事が出てくるけど、たいてい話題に上がっているのが、「二度の殺人は描かれているけど、もう一つの殺人ってなに?」っていう点のようで。
ぼくも、そこは気になった。ので、二回観た。
そして気づいたんだけど、この映画は、「三度目」の殺人の実況中継に終始している。
登場人物を整理。
重盛:主人公、弁護士。父親は元裁判官で、容疑者三隅を30年前に裁いた人。娘との関係がうまく行っていない。
三隅:殺人事件の容疑者。30年前に犯した殺人事件で刑務所に入っていた。食品工場で働いていたが解雇され、その会社の社長を殺害した容疑がかけられている。
咲江:三隅が働いていた食品工場の社長の娘。片足が不自由。高校生。
美津江:咲江の母親。
映画の中で何度か出てくる「理不尽」というセリフ。
なんの落ち度もないのに不幸になって死ぬ人。それと対比して明らかに罪(犯罪)を犯したのに生きている人。生まれながらにして命は選別されている、という理不尽。
この点についての理解(思い)が重盛と三隅の交点となっている。
この物語のキーになる咲江の背景を整理してみる。
咲江の父親は、仕事と家族への罪があるが、それは会社(と従業員)と家族を守るための罪とも言える。
母親美津江は、夫の罪を「見て見ぬふり」しているが、それは夫と自分、そして咲江を守る(生かす、育てる)ための罪とも言える。
咲江は、(父親の罪の被害者であると同時に)父母の罪により生かされてきた(罪がもたらす富により生かされてきた)とも言える。
つまり、咲江の家族・境遇は、生きることや誰かに恵みをもたらすことと罪を重ねることが表裏一体になっている、ということを表している。
罪は、犯そうとして生まれるものではなく、避けようとして避けられるものではない、ということを表しているのだろう、と思う。
もし、重盛が三隅の容疑を(求刑が軽くなるように)弁護すれば、咲江は少なくとも社会的に殺される。最悪の場合、命を断つかもしれない。
でも、重盛が三隅の無罪(殺人に関わっていない)という主張を擁護すれば、咲江にこれから先ずっと(真実を明かさない、という)罪を負わせた上で、三隅が死刑になることを受け入れざるを得ない。
つまり、三隅の裁判は、重盛が何を見て何を信じて誰を擁護(弁護?)するか?によって、誰が生物学的又は社会的に殺されるのか?をぼくら視聴者は傍観するしかない。
そういう意味で、ぼくはこの映画は、「三度目の殺人を実況している映画」と読み取った。
社会(司法)が三隅を殺すのか、三隅が咲江を殺すのか。
どちらも生かす、という3つ目の選択肢は、どうやら見当たらないようだ。
是枝監督の映画にどっぷりハマって、ここ数日はあれこれ見漁っていたんだけど、薄く浅く理解した内容としては、是枝監督は必ずじゃんけんのような構造で家族や社会を描く監督だ。
誰かにとっての善が誰かにとっての悪であることは、まったく当たり前のようにその辺に転がっているし、自分に見えている風景は数歩移動したところから見れば同じ風景であるにも関わらず全く別の意味を持って記憶と気持ちに落とし込まれる。
そしていつも、その判断や思考をこちらに投げかけた上で終幕する。
おもしろいなぁ。