祖父の旅 スリランカ編 1924年そして2024年
祖父は100年前 1924年に 眼科学を学ぶためにヨーロッパを訪れました。すでに祖父は 40歳を超えており、東京の鉄道病院の眼科医長で 脂の乗った医師として活躍しておりました。
私が生まれる前に彼は心臓病でなくなりました。したがって私は彼のことを直接知りません。そういえば祖父は彼の祖父を見ていないと思います。私と同じです。
ただもう一方の祖父は生前に何回もあったことがあります。
したがって、ある程度、祖父というものの理解はできます。
一言で言えば、優しい老人。
100年前というのはどんな感じでしょうか。
私の祖父の祖父は1802年生まれです。私の子供が生まれた時から遡ると179年です。その間に5代あるので、平均すると、一世代約36年となります。この計算から、100年は約3代が含まれるということになります。
つまり自分を含めて3代はまだ感覚的に理解可能です。
おじいちゃんが青年であった時代。
それでは祖父が日本をさりヨーロッパを訪れる前に立ち寄ったスリランカの1924年とはどんな時代でしょうか。
当時英国の植民地ですが、自治はある程度行われ、後で初代首相となる、建国の父と言われた、ドン・スティーヴン・セーナーナーヤカがこの年 立法評議会議員選挙に出て当選したそうです。コロンボから北に約37kmの地点に位置するスリランカの主要な商業のハブの一つであるニゴンボ地区での立候補だそうです。彼は生粋のセイロン人ですが、裕福な実業家の3男で、英国風のエリート教育を受けていた。農業・土地・灌漑政策を中心に活動し、植民地的な政策に対して疑問を投げかけ、またスリランカ鉄道の運営費やダム建設の遅延に対して疑問を呈し、旧都キャンデーにのちにできた セイロン大学を構成する ペラデニヤ大学の創設を提唱した。動物の世話を好み、ゾウ、ブタ、ウシ、イヌなど数多くの家畜やペットを飼て、また、熱心な園芸家でもあった彼は、ランを栽培していたそうです。多数を占めるシンハラ人であり上位のカーストに属していた。
なるほど、征服民であるアーリアとドラビダ人の混血のシンハラと 特にお茶などのプランテーションの労働力として南インドから来たタミルの対立、あるいは他の少数の民族、モスリム、またカースト的な 暗黙の差別が 何世紀も続いていた。仏教徒の間でさえ平等でなかったようです。これが内戦の引き金になった。
現在表面的には平和なスリランカ とは異なる意識下にあるドロドロとした感情がこの社会にも垣間見られます。日本も深く見れば同じことがある。関東大震災時のヘイトとか、琉球処分とか。
当時のコロンボに関して以下1927年に訪れた人に関する、ある西洋人Keeping Soul Alive の方のブログ写真を引用させていただきます。
Monday, 27 August 2012
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The Port of Colombo fell to the British in 1796, when they first arrived on the island. However it remained a Kandyan Kingdom military outpost until it was surrendered in 1815. The Port was made the capital of the new British crown colony called Ceylon. The British decided to build houses and civilian buildings rather than making it into a military centre, giving birth to the modern Port of Colombo
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In 1912, the Port was converted into a sheltered harbour, and the Colombo Port Commission was established in 1913. Much of the city was planned during the British occupation of the Port of Colombo.
Lowry visited the port on the homeward leg of his Far Voyage arriving from Penang on the 30th August and leaving on 1st September 1927 en route to Suez.
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Stan Hugill in his book recalls the sailortown area of Colombo:
Travelling farther East we come to Colombo. Here, around the Pettah or market area, were mainly beer houses and jewellers who specialised in selling rubies, emeralds and such like, or in the transforming them into necklaces, bracelets, and ear-rings for the benefit of seamen. "Eet weel make a nice-a gift for your sweetheart, sahib", they would softly croon into one's ear, then produce a bottle of beer to help one make up one's mind. Years ago in Hill Street there were many brothels occupied by Sinhalese girls which seamen liked to visit. Sailortown
Posted by Keeping Soul Alive at 17:47
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Labels: Far East Voyage 1927, Letters, PortsMonday, 27 August 2012
Colombo, Sri Lanka
コロンボ港で 私の祖父は 水深が浅いため船が桟橋までつかず 沖合でボートに乗り換え上陸しました。
上の写真を見るまでこのことのは気が付きませんでした。
現在のこの辺りから想像する100年前はだいぶ異なるようです。
港も百年間で近代化しました。
祖父はヨーク通りを通って大英帝国的中央郵便局などに行き、ここが大英帝国のロンドンと繋がっていることを実感したと思います。
すでに上海、香港、シンガポールに立ち寄っていますので 大英帝国の力と植民地支配についての再確認であったと思います。
そして
フォート中央駅から鉄道で高原の町キャンディーに向かったと思われます。
私も 2024年にこの辺りを歩きました。以下のVTRで現在の港の様子をご覧ください。
そして私も祖父にならって フォート駅から古都キャンディーに鉄道で向かいました。
祖父も私も 鉄道好きです。
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セイロンの鉄道のメインラインはコロンボ - - キャンディ - バンダラウェラ - バドゥッラで
まず一部が1865年に開業し1924年にバドゥッラまで全線開通。元々は お茶などの運搬用だった。現在はディーゼル機関車が客車を牽引していますが、祖父の時代は蒸気機関車でした。多分次の写真のような機関車。
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213号機2C0テンダー付の軸配置です。Vulcan Foundry、1922年製です。この写真は
管理人:O-銛 https://kemurinimakarete.moo.jp/z3314SriLanka11.html のブログから引用させていただきました
さてキャンデーにつきました。
キャンディーは高原にあり、気候も良く、当時 英国人はこの地に好んで住んでいたと思われます。もちろん、支配階級にあった、シンハラ人などもたくさんいたでしょう。この地は 歴代の キャンディー王朝の都でした。
シンハラの王が作った、人工湖があります。この周辺に 仏歯寺があり、王宮もあり、この王宮から 人工湖の真ん中にある島まで、トンネルを作り、ハーレムとして使ったそうです。 権力者の行うことはいつの時代も同じようですね。
この湖周辺は気持ちが良いところで、今も 市民や 観光客に愛されています。
以下の動画で 2分30秒ぐらいまで キャンディーの映像です。
キャンディーでの私の感想は。こちら
宿はスローライフに適したところで オーナーは親切でした。airb&bで予約。
こちらはキャンディーからコロンボに戻る時の 鉄道の風景です。
祖父が何を感じたか
それは 不明です。 率直な人であったので、 車窓から日本とあまり変わらない 茶畑、山々を見て感動し、またキャンディーの湖畔で 散策するあるいは学校に行く子供たちを眺めて、 自分の子供たちを思い出していたかもしれません。
私は別の感想を持ちました。
鉄道の車内では モスリムのご夫婦と シンハラ、タミル系のご家族とお話ししました。両グループは 英語で喋っていたかな、別に敵対する様子はありませんでした。しかし、私たちもそうですが、異なった習慣の人とは 若干距離があります。スリランカのように複雑な国家では、そのような距離感はさらにあるともいえるでしょう。それを取り除くのは 何世代にも及ぶ 寛容の精神が不可欠です。果たしてどのようにしたら良いのか。時間だけが解決するのでしょうか。
そう感じながら この国を後にしました。
しかし、ひょっとしたら永遠にそれは 不可能なのかもしれない と思い直しました。
表面的には 同じ家族や親友の間では距離がないようですが、その間でも
実は 距離がある。
そうならば 距離解消は不可能と認めて 距離感 持って 生きていくことが 良いのではないかと 思いました。
無限の彼方に理想はあるにせよ 現実のこの一瞬をより良く生きる
コロンボでも ヨーロッパでも 東京でも と今は 思います
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