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漫画にジャブをかまされる
「非現実(≒フィクション)」というのは、逃げ込むにはとっておきの世界だと思う。
その仮想空間が、テレビの中、本の中、絵の中、音楽の中、如何なる創作物の中であっても、日常を忘れられる世界が存在するのであれば、そんなに魅力的なモノはない。
僕も、趣味の一環として、数々の「逃避先」を所有している。
ある時は自分の創作活動の時間、ある時は小説、またある時は漫画など…
今日は、その中から少女漫画の話をしよう。
「書積」(書籍+蓄積)
僕の実家には、それはもう、大きな大きな書棚がある。
棚は、大人の腕を以てしても、到底届かないような背丈と奥行であり、そこに幾重にも列を成して、本が保管されている。
今でこそプレミアのつくようなタイトルも、当時のままのカタチを保って、綺麗に現存していた。
もちろん、そこには漫画もあった。
少女漫画、少年漫画、青年漫画、ギャグ漫画…
特に母の少女漫画、および女性向けの作品は多かった。
僕は決して読書家ではないが、小説と漫画に関しては何でも読んだ。
「別の世界に自己を投影できること」
「他人の世界で一生遊んでいられること」
この2点が、僕には何よりも大切だった。
妄想が捗れば捗るほど、有り難かった。
時代を超えたさまざまな作品を読み漁っていた。
実家と漫画
書棚の中に、「あなたにはまだ早い」という理由で、手の届かない場所に仕舞われていた漫画があった。それらは、母でさえ、脚立代わりの椅子がなければ、触れられないスペースに鎮座していた。
余談だが、僕の母は少し変わっており、「黙っておけば気が付かないようなこと」を、何故か念押ししてきてしまうのだ。
もっと上手な避け方があるのでは?と、子供ながらに感じていた。
したがって、その時も「この本は」と、あからさまに表紙と作品名を明示した上で、「まだ読んじゃダメ」と、丁寧に、奥の、そのまた奥の方へと、姿を眩ませられていた。
大抵の場合、その本たちには、まだ早いと言われるだけの「描写」があった。
特に、少女漫画やレディースコミックの部類には多い、いわゆる「濡れ場」のようなもの。
僕が思春期を過ぎて、すべてのタイトルが解禁(許可)された頃に、確かにこれは子供には見せられるまい…と感じたのと同時に、一度実家の母の前でそれを読んでしまった以上、もう一度読み返したいと思っても、「そういう描写のある」同じ本に手を伸ばすのは、大人としても小っ恥ずかしい気持ちになった。
そんなこんなで、買った。
実家に帰ればいつでも読める、結構なシリーズの大作を、大金をはたいて買ってしまった。
後悔は、ない。
少女漫画と「僕」
この流れでは、僕が「親バレせずにエロ描写を読みたいだけ」だと勘違いされてしまうので、改めて主旨を説明すると、
僕がわざわざ書籍を買い直すのは、冒頭でも述べたように、「現実逃避の行く宛欲しさ」である。
実家で一度読んでみて、何度でも読めてしまう、或いは続刊が気になる、など、「僕がのめり込める非現実、僕とっての必要な栄養素」として漫画を摂取しているのだ。
時代を遡っても、最先端に沿っていても、漫画のストーリーから学ぶことは多く、こと僕の専門外である少女漫画やラブコメからは、どんなにフィクションと分かっていても、人間の面白味を受給できるので、ついつい手が伸びがちである。
異性のいない学校だけが青春のすべてだった僕には、「男女共学で隣同士の席の2人が〜…」とか、「家が隣同士の幼馴染で、腐れ縁の2人が〜…」みたいな、そんなありがちな設定でさえ、ただひたすらに羨ましいと感じた。
にわかに将来を見据え出した学生時代には、「社内恋愛モノ」や、「行きつけのバーで出会った2人が〜…」とか、そうした類の漫画にもときめくようになった。
「冠婚葬祭を機に一時的に帰省した田舎で、久しく出会った遠縁の2人が〜…」といったシチュエーションなども、僕にはあまりにも縁遠いため、逆に興味をそそられたものだ。
「逃避」の末路
さて、立春も過ぎた今日この頃。
学生時代から何年にもわたって揃えてきた、シリーズの新刊が続々と発売された。
どれも購読しているため、公開と同時に自動的にストアからダウンロードされるようになっており、アプリを開けば、真新しい表紙が僕を出迎えてくれる。この喜びを何と喩えよう…。
僕が最近読んだのは、「デザイン会社で働くOLとその同僚の、不器用な恋愛」を描いた作品だ。
*恥を偲ばず釈明するが、僕は、なるべく主人公の生い立ちや境遇が自分に近い作品を選んで買っている。
この新巻では、長年歪み(いがみ)合っていた2人が、とうとう素直に告白して付き合い出した。
とても長かった。思わず拍手が飛び出した。
とあるエピソードの中で、主人公が誕生日を迎えており、お決まりのサプライズを経てキスシーンで幕を閉じていた回で、僕はあることに気付く。
—え、こいつら何歳だっけ?
そう、先にも述べた通り、僕は21を過ぎた頃から、ある程度、「自分の将来に希望を持てる世界」、つまるところ、職業や年齢にも親近感を覚えるようなフィクションを選んできているわけで。
一周回って、中高生の青春ラブコメなんかも楽しめることは事実だが、「ギリギリの可能性」に逃げている時間が貴重だったりするのだ。
1巻から読み返した。
この時点で主人公は社会人3年目の設定だったはずで…。そのまま5巻まで、「前回のあらすじ」も、一言一句逃さぬように、舐めるように読んだ。
ついに6巻、つまり今作。
主人公が、僕の年齢と並んだ。
瞬時に、脳内をいろんな感情が過(よぎ)る。
「こいつらが、同じ会社の中で、何年もかけて乳繰り合ってきた6巻分、僕は、何をしてきたんだろう。」
時系列などロクに存在しない世界において、僕が現実の話を持ち出すことは、もはやタブー。
そして、それは哲学だった。
この漫画が発表されたばかりの当時、まだまだ大学構内で、就活がどうのこうのと愚痴を漏らしながら、最高の現実逃避として手を出した漫画の「不器用な男女2人」は、僕と同い年になっていた。
新卒2年目、僕が休職していた時も、「不器用な男女2人」は、心の拠り所だった。
しかし同い年になった今、それはもはや何の安息も与えてはくれない。
そこにあるとすれば、恐怖。それだけである。
今作で同い年になったということは、知らないうちに、僕の方が社会人歴が長くなっていたのか、という真実にも気付いた。
職場を失くして早2年、とうとう僕は、夢に見ていた「彼ら」よりも、歳をとってしまっていた。
フィクションであり、ファンタジーなのだと悟った。
斯くして僕は、またひとつ、大切な逃避先までも失った。
どうやら次巻で完結するらしく、それもそれで悲しくなって、遠くを見た。
どうせ結婚するのだろう。
少しばかりの蜜をば…と自分を甘やかして見てきた仮想空間は、あまりにも美しく輝いており、僕が自身を投影するには、自殺行為に等しかったのだと、己の身分不相応な憧れを悔いた。
「現実逃避」という言葉が、読んで字の如く表すその様を、受け入れたくなかったあの頃の自分に教えてあげたい。
「逃避先」は、現実味を帯びるほど、ダメージが大きい。
「非日常」は、身近ではありえないほど、没入できる。
今や僕は、殺し屋が主人公の漫画くらい、僕自身とかけ離れた存在でなくては、この日常から逃げられなくなってしまった。