現在・過去・未来 (近況報告ダイジェスト)
こんなにも、書きたいことで溢れている夜はいつぶりだろう。
話題性に欠き、とかく沈黙を貫いてきたあの頃とは打って変わって、最近の僕は、誰かに伝えたいことが山積している。
どれも、とても些細なことだ。
仕事帰りにライブに行ってきただとか、この歳になって新しく気の合う友人ができただとか、自然の中をだらだらと歩いて桜を見ただとか。
ありふれた表現でしか伝えられないのがむず痒いけど、毎日の中にうっすらと、あたたかい光の線が流れ込んできている。そんな感覚がする。
こんな時、素直に喜んで良いものなのか、悩ましく感じるようになった。
人生の中で、「今ツイてるな」と感じられるということは、すなわち、それは後に反動が来るということでもある。
僕の25年間は、一度として安定していたことがなく、調子の良い時と悪い時で大きく高低差のある波形を描いてきた。
ジェットコースターみたいな人生だ。
特にこの2年弱の振れ幅は恐ろしかった。
2021年の秋口、長く付き合いのあった恋人と別れて以降、これまでにないほどのどん底を見た。
幾度となく生きる意味を考え、時折、自分自身が夢を見ているような感覚に襲われた。
「 "今" 見ているこの映像は、"誰" のもので、いつ終わるんだろう」と、本気で思い込んでいた。
「人生は波である」と信じていたので、状況が好転することを強く望んで前を向いていたが、瀕死で手にした内定が企業の都合で取り消された時、何が楽しくて生を成しているのか分からなくなった。
唯一の幸運と言えば、僕の周りには支えてくれる知人が多くいたことで、彼らの存在にしがみついてきたのだが、激励の言葉すら素直に受け止められなくなった頃、いよいよ救いようのない人格になってしまったと、自分のことながら呆れた。
孤独は苦しかったが、人と過ごすのも怖かった。
失望されることを恐れていたのだと思う。
楽しさを覚える瞬間がひと時もなかったわけではないが、感情がプラスに働くと、程なくしてまた地獄みたいな日々に舞い戻ることになると気付き、その振れ幅を恐れて、実生活から人との関わりをやんわり排除するようになった。
そんな中で、無意識のうちに頼っていたコンテンツが、自然のある環境と、そして音楽だった。
暑くても寒くても、太陽の光は、皮膚の表面にこびりついた垢を焼き殺してくれたし、風が吹けば、身体中に隠れていた埃を絡め取っていった。
音楽は、歌詞があろうとなかろうと、耳の内を滑らかに伝い、脳みその形に沿って旋律を奏でた。
言葉を含むと、いつも以上に神経に響いて、半ば強制的に感情を突き動かしてきた。
その時勝手に溢れてきた涙は、体内の汚物を濾過するためのものだったのだと思う。
好きなバンドの音楽を聴いて、「この曲は自分のために書かれたものなんじゃないか」と感激するファンがいるのも頷けるほど、それらはナチュラルに心に響いてきて、僕の唯一の理解者であるように思えた。
社会に対する遣る瀬無い気持ちは、「ヘンショクリュウ」が代弁してくれていた。
人間関係や日々の刹那であれば、「クレイジーケンバンド」が唄ってくれていた。
彼らのクリエイティブに何度救われたことか、数えきれない。
大好きなのでちょっと紹介しちゃおう。
▼ ヘンショクリュウ / 問う、今日 ▼
▼ クレイジーケンバンド / あぶく ▼
今、ちょっと行き詰まっている人がいたら、ぜひ聴いてみてほしい。
物心ついた時から生活の一部にしてきた音楽が、いつの間にか、僕の本質的な精神衛生の均衡を司る偉大なものになっていた。
だからこそ、僕は今こうして「表現」に執着している節があるんじゃないかと。
誰かの創造物に救われたから、自分も誰かの役に立ちたいと。
子供じみた考え方ではあるが、僕の原動力はそこにある気がしている。
そして最近は、日々の中にも少しずつ「誰か」の存在が介入してきていて、また人と深く関わることができている事実が、とても嬉しい。
喩えとして正しいかは分からないが、
大きな布から出た一本の糸がするすると解けていくような、激しさは伴わない、そんな緩やかな喜びを感じる。
時代の描く波をなだらかにするためには、そんな毎日の中の小さな光にどれだけ気付けるかに懸かっているのではないかと思う。
しごく月並みな私見だけど、前提として、このテーマの壮大さを理解しているのであれば、結局のところ、目の前のミクロから探求していくのが吉なのだ。
他の人に比べて、どうしようもない道を辿っていると思う。
ただ僕は、道草を食って、崖っぷちでもがいて、回り道した分、ちょっとだけ、ちょっとした喜びを探すのが上手くなった。
そういうのも、成長と呼んで良いのかな。
少なからず、僕は進化していると思っている。
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