「新しい実在論」を分かり易く学ぶ➍
《これまでの記事》
「新しい実在論」を分かり易く学ぶ❶(2020.6.5)
「新しい実在論」を分かり易く学ぶ➋(2020.6.20)
「新しい実在論」を分かり易く学ぶ➌(2020.7.6)
◇第4回「存在するとはどのようなことか」2020.7.17 ZOOMにより実施
BPIA (ビジネスプラットフォーム革新協議会)の会員向けに行っている研究会「Think!」。2020年度の研究会は、『Think! 新しい実在論研究会 〜新実在論で世界、社会を捉え直す〜』というテーマで、オンライン講座という形態で進めています。https://b-p-i-a.com/?page_id=8119 「本質主義vs.相対主義」という対立から抜け出す第三の道を開く、マルクス・ガブリエルらが提唱する「新実在論(新・ドイツ観念論)」などの最新哲学を探究します。
2020.7.17に、研究会第4回がオンライン開催されましたので、以下要旨を報告いたします。
本研究会では、マルクス・ガブリエルの著作『なぜ世界は存在しないのか』(講談社選書メチエ刊)を基本書としています。
今回第4回は、本書の第2章「存在するとはどのようなことか」(P75~P97)を共有します。
この第2章「存在するとはどのようなことか」の探究に入る前に、ここまでの振り返りをしましょう。
哲学的知見の探究では「振り返り」が大切です。なぜなら「私は一体何について考えているんだっけ!?」と迷宮に入ってしまうからです。
そもそも私たちが考察しようしているのは、マルクス・ガブリエルの基本テーゼである、
です。
そこで、私たちは「世界」について考えました。
「世界」とは何か?
前回では、「宇宙」と比較しながら、下記のように「世界」について整理しました。
「世界」は、物、対象、事実の総体ではない。
「世界」とは、すべての対象領域を包摂する対象領域である。
前回、このように私たちは整理しました。ここで、我々は混乱しています。そもそも、物、対象、事実、対象領域って何だったっけと。
第2章「存在するとはどのようなことか」の探究に入る前に、この
物、対象、事実、対象領域
を確認しましょう。
まず、「物」です。
上記の、リンゴ、果物鉢は「物」です。
さらに、上記のように「物」にある意味合いが付加されると「対象」となります。ある意味合いとは、真偽に関わりうる思考のことです。
「対象」とは、真偽に関わりうる思考によって考えることができるものです。
僕にとって、
・母親が紀伊國屋で買った5つの真っ赤なリンゴ
・祖母から譲り受けた味わい深い果物鉢
・祖母から譲り受けた味わい深い果物鉢にある母親が紀伊國屋で買った5つの真っ赤なリンゴ
はすべて「真」です(僕の記憶が誤っていなければ…)。つまり、これらは「対象」です。
「物」が真であれば「対象」となります。
また、「対象」が真であれば「事実」となります。
・母親が紀伊國屋で買った5つの真っ赤なリンゴ
・祖母から譲り受けた味わい深い果物鉢
・祖母から譲り受けた味わい深い果物鉢にある母親が紀伊國屋で買った5つの真っ赤なリンゴ
上記「対象」は「真」なので、「事実」となります。
物、対象、事実について確認できましたか?
こうなりますね。
上記「リンゴが入った果物鉢」や「花瓶」をまとめて、「対象領域」といいます。
どんな「対象領域」か? それは僕の母親がテーブルの上に置いたものです。
「リンゴが入った果物鉢」や「花瓶」を包摂し、僕の母親がテーブルの上に置いたという規則によって定まっています。
物、対象、事実、対象領域を確認しましたので、早速、
第2章「存在するとはどのようなことか」
に入りましょう!!
今回の考察は「存在」です。マルクス・ガブリエルのテーゼ「世界は存在しない」の「存在」です。
ここからは「存在する」ということを考えます。その上で「存在しない」に言及することになります。
マルクス・ガブリエルは、「存在」を考える当たって、この第2章では、改めて「対象」や「対象領域」の性質について説明しています。
「対象」の持つ性質は、1)それぞれの「対象」は、特定の性質を持っている。2)その性質は、物理的・感情的・論理的なもの。3)この性質が、ある「対象」から他の「対象」を区別している。4)「対象領域」も同様の性質を持つ。
これを見てください。
左は何で、右は何でしょうか?
答えは👆です。
チャーハンとピラフを「対象」として区別しているのは、👆の「性質」の違いです。
また、チャーハンとピラフは「僕の好きな食べ物」という「対象領域」に含まれます。
ある「対象」の性質が、この「対象」を他の「対象」から区別しているのです。
マルクス・ガブリエルは、この「対象」の性質から、
二つの哲学的問い
が生じるとしています。
それは、👆のような問いです。
最初の問い(問い1)は、存在する一切の性質を備えた「対象」は存在し得るか?です。
マルクス・ガブリエルは、存在する一切の性質を備えた「対象」を、
「超対象」と呼んでいます。
つまり、問い1は、超対象は存在するか? ということになります。
👆のように、マルクス・ガブリエルは、「超対象」はすべての性質のメレオロギー的な合成であるとも言っています。メレオロギー(Mereology)とは、部分と全体の関係のことです。例えば、「車輪」と「車」の関係です。「超対象」は、すべての部分とすべての全体を包摂する存在ということです。
さて、この「超対象」は存在するのでしょうか?
マルクス・ガブリエルはこう言っています。
「超対象」には、
・どんな性質が含まれるのか?
・それが本当のすべての性質のメレオロギー的な合成なのか?
といったことを判断する「基準」など、どうでもよいことになるよね。だって、すべての性質を持つ「対象」、つまり「超対象」は、何の基準もなしに当の「対象」それ自身であるからさ… 「すべて」には基準はいらないのさ…
「基準」という言葉が出てきました。👆のように「基準」は区別するため、判断するためにあるのですね。
「超対象」は「すべて」だから、判断し区別する必要がなく「基準」がいらないのです。
そう、ある「対象」は、他の「対象」と区別されます。その時、区別するための「判断基準」が必要となります。逆に言えば、「判断基準」のないところには、「対象」は存在しないことになります。
こうなります。
➤「超対象」は「すべて」なので、基準はいらない。
➤ 基準のないところには、「対象」は存在しない。
このことから、何が導けるでしょうか?
そう、
問い1「超対象は存在するか? 」の解答は、「存在し得ない」です。
ここで皆さんは混乱していると思います。「存在」について考えているのになんか離れているぞと。
でも、もう少し待ってくださいね。
ここでは我慢して、もう一つの問いを考えましょう。
問い2は、どの対象も他のすべての対象から区別されるのか?です。
僕は僕であり、君は君だ。
僕の左手は僕の左手であり、僕の右手は僕の右手だ。
どの「対象」もそれ自身と同一であり、他のすべての「対象」から区別されますよね、皆さん!
僕はそう想いました。
しかし、マルクス・ガブリエルはこういいます。
ええっ!
マルクス・ガブリエルは、区別されないと言うのです。
マルクス・ガブリエルは、以下のように説明します。
右の女性は、自分がある対象Gが存在していることを知っています。
また、彼女は、それ以外のことは、知りません。
彼女は、対象Gを知っている左の男性に訊ねます。
彼女「GはPCですか?」
彼「いいえ」
さらに、
さらに、
さらに、
さらに、
さらに、
さらに、
こうして👇
彼女が「対象」を挙げるたびに、Gを知る人が教えてくれたのは「Gではない」ということだけだったのです。
マルクス・ガブリエルは、こう言います。
この場合、Gは、他のすべての対象から区別されることによって、Gそれ自身と同一であることになる。
しかし、これではGには、具体的な本質が何もない。Gは、他のなにものでもないということによって、ただ否定的・消極的にだけ規定されている。
彼女は、Gについて何も積極的なことは知らないのだ。
Gが何かを知りたいのであれば、Gが何でないかということ以外のことを知らなければならない。
マルクス・ガブリエルは、こう説明します。
1)対象Gのアイデンティティとは、他のすべての対象とGの区別ではない。
また、
2)いかなる「対象」もそれ自身と同一であるという性質は意味がない。
よって、
3)Gは、他のすべての対象との区別以上の内容を持つ「何らかの固有な性質」を備えている必要がある。
これを僕に当てはめれば、こうなります👇。
僕のアイデンティティとは、他の人々と僕の区別ではないのです。
また、僕は僕自身と同一であるという性質は意味がないのです。これでは具体的な本質がないからです。
よって、僕は、他のすべての人々との区別以上の内容を持つ「何らかの固有な性質」を備えている必要があるのです。
むむ......。
他のすべての人々との区別以上の内容を持つ「何らかの固有な性質」って、何だろうか?
むむむむむ?
マルクス・ガブリエルは、こういいます。
他のすべての対象との区別以上の内容を持つ「何らかの固有な性質」を備えるなんて不可能だ!
つまり、問い2「どの対象も他のすべての対象から区別されるのか?」の解答は、区別され得ないです。
この「二つの哲学的な問い」に対する解答から、マルクス・ガブリエルは、次のような考えを導きます。
たった一つの世界なるものなどは存在しない。むしろ無限に数多くの、もろもろの世界だけが存在している。
マルクス・ガブリエルは、少し言い換えて、こう言います👇。
たった一つの世界なるものなどは存在しない。むしろ無限に数多くの、もろもろの「対象」「対象領域」だけが存在している。
もう皆さんには分かってきたと思います。
マルクス・ガブリエルは、「世界」をこう説明していました👆。
「世界」は「すべて」、つまり「総体」です。
ここまでの考察から、「たった一つの世界」「すべて」「総体」は存在しないことが分かりました。
そう、世界は存在しない。または、総体は存在しない。
あれれれ!?
僕たちは今回「存在」について考えようとしていたのに、そもそもの考察目的である「世界は存在しない」に至ってしまいました。
でも、マルクス・ガブリエルは、こう続けます👇。
では、「対象」や「対象領域」はどこに存在するか?
マルクス・ガブリエルは、こう言います!!
「意味の場」が存在する。
「意味の場」とは、およそ何かが現れてくる場です。
僕たちはここでやっと、今日の考察テーマである「存在するとは?」の解答にたどり着きます。
「存在すること」とは、何らかの「意味の場」の中に現われることです。
マルクス・ガブリエルにとっては、「意味の場」を提示しないと「存在」について説明できなかったのですね。だから、こんなややこしい思考展開になったのですね!
さて、ここから我々が考察すべきはもうお分かりですね。
それは、
「意味の場」とは何か?
です。
次回は「意味の場」について考えますね。
以上
(記載日:2020.8.4)