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櫻子先生 8 車

「お母さんどうして車の運転しなかったの」
「わて、車を運転したことあるねん」
といって、話し出しました。

田舎で車が走り始める前、日本は戦争でガソリンがなく、田舎でもめったに通らないバスやトラックは、ガソリンの代わりに、車の後ろに大きなドラム缶のような入れ物を付け、その中に小さく切った木を積んで走っていました。木が、ガソリン変わりでした。私の小学校時代です。
それから間もなくガソリン車が復旧し始めましたが、村に車は一台もないのが当たり前でした。
そのころ、車を買うと免許が車についていました。誰かに動かし方を教われば自由に乗れる時代でした。

母の話です。
「あの頃家の前は、車がめったに通らない田舎の国道やから、車に乗ってみたんや。」
「ダットサンやったなあ。言われた通り操作して、ペタルを踏んだら前に進むねん。びっくりした」
母は笑いながら初めての運転の話を始めました。
「運転は面白かった。道に車は一台も通らへんねん。そして車はすいすい走るねん、気持ちよかった。わては、それまで自転車に乗っていたから」
「面白がって乗っていたら、前からトラックが来たんや」
「初めて出会った車や。わて怖いから、道の真ん中やったけど、止まってしもた」
「前のトラックが、ラッパをブーブー鳴らすねん。わての車に、どけというのがわかったけど、端に寄ったら、道端の溝に落ちそうで怖いし、動けへんねん」
「トラックの運転手さん怒ったでしょう」
私は笑いをこらえながら、続きを聞きました。
「そら怒った。でもどうしようもないから、じっとしていたら、トラックの運転手は窓から顔出して、ごっつい声で怒るねん。
『そんなとこに車止めたら、通られへん。おばはん、車どかしてえな』
と、ものすごい剣幕で、わめくねん。わては、
『どけられへんねん』と返事しても、運転手はそこどけと言うて、きかへんねん。わては『動けへん』と言うだけや」
「とうとう運転手がプリプリ怒ってトラックから降りて来たんや」
『おばはん、あんたのこの車をどかしてくれへんとな、わしの車がここを通られへんのや』
と言うて、また、ごっつい馬力で怒るねん。わても腹立って
『なんぼ怒ったかて、わては怖いからこの車、よけられへん』
と、怒りかえすと、
『そぉうでも、どうでも、どいてくれな、わしの車は通られへん』
と運転手はますますわめくねん。わて仕方ないから
「あんたどうしても、ここを通りたいか」
と、聞いたら
『当たり前や』
と言って、またものすごい顔するねん。
「そんなに通りたかったら、自分でわての車どかして、通ったらええねん」
わても腹立てて怒鳴って言い返したってん。
そのおっさんは、唖然としてたけど、わてをどかして、自分で運転して、わての車を道端によけてくれてん。
運転手はトラックの窓から顔出して、
『おばはん、気つけて行きゃ』
と言うて、行ってしもた。ひどい目に合うた。それ以来、わては運転やめた」
ひどい目にあったのはトラックの運転手さんだったのにと思い、しばらく笑いが止まりませんでした。

それからあちこちで車を買う人が出てきました。母も運転手の山田さんに運転してもらって往診に行くようになりました。
その頃から近くの村や町で町立や村立の診療所ができて、若いお医者さんが赴任してきました。
その先生方は、医師会の帰りには母を送り方々、みんなで、わが家に寄っていきました。わが家は若いお医者さんのサロンでした。
何かがあると、お医者さんたちはわが家に来ていました。
私の実家の居間に大きな掘りごたつがあり、上が机になっていました。
寒くなるとテーブルの板と堀炬燵の間に布団をかけ、暖かい炬燵になりました。
家族はこの机の上で本も読み宿題もし、そこで食事もし遊びもし、来客でも誰でも来た人は、このこたつに足を突っ込んで、食べたり飲んだり、しゃべったりしました。
子供もお客もみんな一緒でした。
母を送って来た先生方も、自宅に帰ったように、こたつに入っていました。
当時は飲酒運転の罰則もなく気楽に酔っぱらって帰っていきました。
帰りに車が田んぼに突っ込んだと言って連絡が来て、父が助けに行ったこともありました。
お医者さんの話はいろいろでした。破傷風をもう少しで見落とすところだったとか、今度の風邪は熱が高いとか、どの薬が効くとか、わが家の炬燵は、医学情報のるつぼでした。
先生方はわが家に来るのが大好きで、どの先生も出かけると、帰りは国道沿いのわが家に立ち寄り、炬燵で食べて飲んでしゃべっていきました。
先生方の相手はいつの間にか父でした。父は一緒にお酒を飲んでみんなの話の聞き役でした。
「あんたら、飲みすぎる前に、いい加減に帰りなはいや」
と、言って、母はいつも子供たちと一緒に、先に寝てしまいました。
「まだ飲みすぎるほど飲んでまへんで」
と、お医者さん達は言って、楽しそうに父を相手にいつまでもお酒飲んでいました。先生方は母の弟のようでした。
先生達は姉や私をクリスマスや、家族のドライブに誘ってくださいました。そのたびに私はいつも、先生方の外国の車はいいなあと思いました。

当時日本の車は、外国の車に比べて、故障が多く、エンジンもかかりにくいのは当たり前でした。
エンジンがんかからないときは、エンジンかけながらみんなで車を押して走ると、ブルンブルンとエンジンがかかり、走り出しました。そのたびに、私は不思議に思いました。
国産車は故障も多く、見劣りもしましたが、わが家はいつも国産車でした。
母の車は、往診だけに使う車でしたから、車の修繕もする山田さん以外は、別に困らないようでした。
そんな時、外車を売る会社の人が、掘りごたつにやってきました。
「桜子先生、お医者はんはみんな外車です。木村先生はルノーが好きです。ヒルマンは人気で山本先生も乗ったはります。フオードはやっぱり最高です」
と言って、母に勧めました。
「日本人が日本の自動車を買わんで、誰が買うねん」
母はぶっきらぼうに返事しました。
「せやけど、やっぱり外車にはかないまへんわ。日本の車は故障が多いし、外国の車の性能はやっぱり、よろしおっせ」
「外車は、かっこもよろしおます。お医者はんはこれ位の車乗らはらんと」
外車の会社の人は、一生懸命、父や母に勧めました。母はついに、
「あんたは、何処の国の人間や」
怒りだしました。
「あんた日本人か、日本人がなんで外国の車勧めるねん。わては日本人やから日本の車以外は買わへん。外国人にその車売ってきなはい、遊んでいくのはええけど、くるま売りに来たんやったら、もう帰って」
母の剣幕はひどいもので、車屋さんが気の毒になったのを覚えています。
母の車は終生ブルーバードでした。



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