「忘れられた巨人」と忌野清志郎の「デイドリーム・ビリーバー」

リドル・ストーリーという物語の形式がある。日本で1番有名なのは芥川龍之介の「藪の中」だろうか。「作品中に謎を残したまま終わる物語」で、中でもそれのこと自体が主題になっている物語のこと。

その定義からいくと、カズオ・イシグロの「忘れられた巨人」はリドル・ストーリーとは少し違うのかもしれない。結末は提示してある。ただ、この結末をどう解釈して良いか明確な答えがない。そして、解釈次第で全く結末に至るまでの印象が変わってしまう。

カズオ・イシグロは僕の1番好きな作家で、代表作「日の名残り」の邦訳タイトルそのものがこの人の世界観を1番表しているように思う。かつて素晴らしかった物、かつてとても美しかったものが消えゆく時、その瞬間の今まさに消えゆきつつあるその時に最も心を揺さぶられる風景が現れる。その様子に感動もするし、少し胸がざわつきもするし、黄昏時の少しあとのよう不安感も残る。

失われた巨人は、いままさに命が朽ちようとする老夫婦の間に紡がれる愛おしくも悲しい物語の、その最後の輝きそのものに対しての謎が残るような解釈の余地を残して終わる。そのことがかえってこの老夫婦の愛を鮮烈に印象付ける。

この読後感を思う時、頭の中を忌野清志郎(というべきかタイマーズというべきか)の「デイドリーム・ビリーバー」がよぎる。
僕自身忌野清志郎は一つ上の世代のロックスターという感じだし、リアルタイム世代ではなくて、この歌もセブンイレブンのCMという印象の方が強い。
その時は何も思わなかったけれど、spotifyのシャッフル再生でこの歌が流れた時、よく歌詞を聞いたら元曲のモンキーズの和訳(ただほのぼのとした幸せな歌)ではない、全く違うニュアンスの歌詞であることを知った。

忌野清志郎は、実母が3歳の時に亡くなり、実母の姉夫妻に育ての親に養子として育てられた。大人になり、33歳を迎えた時に実の父が亡くなり、父の遺品整理をする中で実母の写真にであったという。
それ以降清志郎は実母の写真をいつも持ち歩いていたそうだ。そして、そんな背景があるからかこの清志郎版のデイドリーム・ビリーバーは実母に向けての想いを歌った歌だと、一部ファンの間では囁かれているらしい。

でもそれは遠い遠い思い出。日が暮れてテーブルに座っても
あー今は彼女、写真の中で、やさしい目で僕に微笑む。

ずっと夢を見て幸せだったな。僕は、daydream believer。
そんで彼女はクイーン。

この歌詞は幼い頃に亡くなった母と過ごしていた日々の白昼夢か、育ての母を歌った歌。

ただ、これはファンが忌野清志郎の背景を知って思ったことであり、清志郎自体はこの歌が母について歌った歌であるとは一度も、どこでも話したことがないらしい。つまり、母の歌だというのはファンの解釈であり、ただかつての恋人について歌った歌かもしれない。

特にご本人が亡くなった今となっては、真相は誰にもわからない。

失われた巨人にしろ、清志郎のデイドリーム・ビリーバーにしろ、結末自体が謎のまま終わっているわけではないという意味でリドル・ストーリーの定期からは外れるかもしれない。ただ、それがどんな心象を残すかは完全に受け手によってかわる。受け手がどう捉えるかに全てが委ねられている。

そこに何があり、どんなメッセージがあるか。本人には本人の真実があり、受け手には受け手の真実がある。僕はそうした類のものがとても好きなのだと思う。

一方で。

僕はかつて、自身の管轄する場所のメンバーが退職するにあたり「自分自身の振り返りとして教えてほしい、自分の関わり方でもっとこうしてほしかった、というようなことがあるか」と聞いた時、こんなふうに返してもらったことがある。
「敢えて言えば、『察しようとされる』ことが多かった気がする。相談や報告した内容から全体を理解してくれようとするのはありがたいが、サマリを報告した後にもう少し深く意図を聞いてほしいことがあった。
話す側もたくさん考えていることから一部を切り出して話している。その切り出し方は人によって違うし、全体像はあなたの推察するものより違うこともある。もう少し、深く聞いて欲しかった。」

はっきりと、しっかりと言語化してくれた分、この言葉はとても自分に刺さった。リドル・ストーリーのように受け手にどう受け取ったもらっても良いというものもあれば、そうでないものももちろんある。
そもそも自分はかなり日本の小説や短歌や俳句を読むけれど、これらはスーパーハイコンテクストであることも多く、受け手が行間を読むことで成立することが多い。

きっとこれは自分の癖なのだと思う。だからこそ受け手に委ねてもらえるコンテンツは心地よいし、きっと対人においては聞ききれない、聴ききれないことがたくさんあるのだと思う。

受け手には受け手の真実があり、語り手には語り手の真実がある。
そこをお互いに擦り合わせをしないでそれぞれ自身の解釈を尊重するからこそ楽しめる物語もあるし、そこをお互いに擦り合わせることでしか進まない仕事もある。

カズオ・イシグロと忌野清志郎について考える時、そんな事を思う。

ちなみに忌野清志郎の「スローバラード」の世界観はまさに、まさにカズオ・イシグロの世界に近いと思う。かつてとても輝いていたものが消えゆく瞬間の、全盛期を超える美しさ。日の名残りに残るザワザワした気持ち。


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