親愛
前へ進もうと思う。美しいことだとも思う。いい季節になったと思うのは、春風が便箋を払ってしまうからだ。他人と少しでも分かり合えたと思う時、親愛という感情を理解したような気になれた時、自分の中にある感情の容量からなにかがこぼれ落ちてしまいそうになる。とても勿体ない事のような気もするし、同時に果てしなく美しいことのようにも思う。前に進むということは、今まで拾ってきたもの全てを、つまりは畢生を肯定してあげることなのかもしれないと、恥ずかしげもなく歌を歌っているとふと考えるようになった。しかして我らは未熟であるから、反省しなければならないこともたくさん、沢山あるけれど。
嬉しいこと、悲しいことの全てを思い出にできた時、人は過去を振り返るようになるのだろう。けれども私が思うには、後悔は美徳であるから。思い出と後悔を持って、されども振り返らずに、時には思い出して又さらに強い意志を持って歩いてゆきたいと、それが我ら少年少女の美しさであるのだと、私は私の心に叫んでいる。
それでも何らかの理不尽によって、いやそんなものでなくとも、己の心の弱さによって、怠惰によって苦しむこともあるだろう。そんな時にこの手紙が、私から私に向けたものか、誰かから受け取ってきたものか、とにかく、貰ったもの全てが私達の人生の支えとなるのだ。そうだと信じているし、祈ってもいる。
向う見ずな情熱と、忘れ得ぬ思い出と、今も湧き続ける感情と、あなたへ、あなたへ、あなたへの愛を持つことが出来れば、我々は無敵となれるのだ。
最後に、親愛なるあなたへ。それと創作と人生を生きるために。あなたと言うのは、私であり、あなたであり、家族であり、師であり、さらに私の深くにもしくは浅くにあり続けてくれている感情達へ。親しみと愛を持つことを親愛と呼び、私はそれを信じられるようになった。
なんとも言語化の難しいことではあるが。いうなればそれは手を繋がずとも共に歩くことで、自らも顧みて対話をすることであり、つまりは幸福を、あなたが幸福に生きられることを、どうしようもなく願ってしまうことだ。
世界のどこかで、私の大切な人達が、我々が幸福でありますように。前へと進む意志を持ち続けられるように、時に途切れようとも拾ったものを支えとして前を向けますように。どうか、生きていてください。親愛なるあなたへ。
これらの言葉も経験も、全て創作の糧となるのだろう。つまりはものを作り続ける限り、人生全てに意味が生まれるのだ。それは卑しいことだろうか、美しいことだろうか。今はまだ分からないけどだからこそ、いつか分かるまで作り続けよう。さあ、また1歩前へ。ありがとう、また会おう。