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育児 子どもを可愛いと思えない、もう一つの理由。育てて返す使命と義務。

以前、書いた記事。
こちらの【もう一つの理由】について、お話ししたいと思う。

子どもが生まれた時から、どうも可愛いと思えない。

他の人はどうか知らないが、
子どもが生まれたその日から、私の中に
『この子を社会に役立つように育てて、社会に放たなければいけない』
という使命感が強く湧いた。

その原因は、中高の6年間をキリスト教の学校過ごした私は、
『あなたたちは神様からの預かり物。』
先生方にそう言われてきたことにある

それは私の中で少しいびつな形に意訳されて心に染みついた。

意訳はこうだ。

神様からの預かり物だから大切

預かり物だから、神様に=社会に役立つ人間として返さなければならない

高校を卒業して数十年経ち、キリスト教とは無縁の生活を送っているものの、
6年間讃美歌を歌い、聖書に触れていた日々にできた基盤は強い。

神様の預かりもの。
返さなければいけない。
私のものではない。

染みついた歪んだ意訳そのままを、目の前に生まれた子どもにも重ねてしまった。

子どもを自分の物のように思うよりはいいのかもしれないが、
私の場合は距離を置き過ぎているのではないかと思う。

それに輪をかけるように、完璧主義の一面も働き、まっすぐに正しく育てなければ、という義務感、使命感にとらわれていた。

そりゃ可愛いと思う暇なんかないよな、と振り返ってみても思う。

さて、今はどうだろう。
乳幼児期を過ぎ、少年時代に突入した息子。
間も無く思春期もやってくるだろう。

母の使命感、義務感などは全く知らずに、彼は彼らしく育っている。

好きなことを見つけ、友達と過ごし、
当たり前だけど、私とも夫とも全く違う人格で、立派に成長しているように思う。

どう型にはめようとも、彼は彼にしかならない。
それは神様から預かったまま大切に育ててきた、と言えるのではないだろうか。

となると、私は既に使命も義務も果たせているかもしれない。

相変わらず可愛いとは思えないのだけれども、彼らしく育っている様子はとても眩しく感じられる。

自我が目覚めている子どもに対して、これから親ができることは、衣食住と、犯罪を犯させないことくらいじゃないか。

それが、預かり物のまま育て返すことに繋がっているように思う。

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