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小説を読む③もう少し続く 2024/11/05

昨日から読み始めた小川糸さんの新刊『小鳥とリムジン』を、寝る前に読み、寝落ちして朝起きてまた読んだ。そして、少し前に読み終えた。

読み終えて少し経って、次の本を読む前に、今感じていることを残しておかないと、と思った。

わたしの中に残っているもの。そのままを言葉に仕切ることが出来ないのだけど、ほわっと言語化してみると、「自分を大切にするということ」だと思う。

2つ前のnoteに、こういう風に書いた。

代わりに、わたしが小川さんの小説を好きな理由をひとつ述べておこうと思う。『生きることから逃げていないこと』、すっとでてきたこの言葉が、わたしが小川さんの小説を人生の節目事に読ませていただけた理由な気がする。

小説を読む①多分続く 2024/11/04

読み進める中で、色んなことを感じたし考えた。
扱ってあるテーマに対して、必要なことがちゃんと書いてあると感じた。『生きることから逃げていない』から好きな小川さんの小説、「自分を大切にする」ということが書いてある小説、そのテーマの真ん中にあるものは『愛すること』だった。

帯によると、「食べることは、生きること」が『食堂かたつむり』、「死に向き合うことは、生きること」が『ライオンのおやつ』、「愛することは、生きること」が『小鳥とリムジン』であるとのことだった。

『愛』ってなんだろう。

1つ前のnoteは、こういう言葉で締めくくっていた(脈絡がなくて申し訳ないが、多分繋がるはずなのでそのまますすめる)。

ということで、一旦ここでおしまい。晩ご飯を食べようっと。そうそう、小川さんの小説が好きな理由、上述の引用の通りなのだが(『生きることから逃げていないこと』)、その中には主人公が食事をするシーンであったり、食べるということの距離感が近いこと(ときにちゃんと遠いこと)にあると思っている。食べることは生きることだから。

小説を読む❷多分まだ続く 2024/11/04 -2

小川さんの小節、帯の言葉から引用・上述させていただいた3つの小説は、「生きること」について書かれている。

わたしが小川さんの小説を好きな理由は、「生きることから逃げていないこと」だと書いた。そして、ということはつまり、「食べること(は生きること)から逃げない」「死に向き合うこと(は生きること)から逃げない」「愛すること(は生きること)から逃げない」と置き換えられるかもしれない、と思った。

先程、『愛』ってなんだろう、と書いた。
わたしはきっと、既にその答えを知っているのだと思う。でも、知らないことにして、無いことにして、分からないことにして、さ迷っている。もしかしたら(もしかしなくても)愛そのものなのに、わたしは誰なのかわからなくてさ迷っているのだ。

ちなみに、それ愛そのものであるのはわたしだけではなくて、この世界の生きとし生けるもの全てがそうだと思う。だからあなたも愛だし、道端の小石も、海も山も、空も雲も蜘蛛も、星も宇宙も、ナイアガラも、ピラミッドもモスクも教会も、砂埃も花も水も、この世界にあるものは全て。

こちら側の感覚が開いているので、目の前にある愛とかは難しく感じる。と書いてみたものの、わたしも漏れなく人間なので、目の前にある愛を求めている自分はいて、そこには大きな矛盾を感じる。きっと、答えが見つかっているようで見つかっていない。見つかっているというか、知っているのに閉じている。そろそろ、この蓋開けてもいいんじゃない?というか、何回も開けてきたと思うんですけど、まだあるんですね?え、永遠に開ける?半永久的に開け続けるってこと?・・・まぁ、そうかもしれないよね。

愛だと思ったものはその瞬間愛ではなくなるのかもしれず、でもその愛でなくなったものをあのとき獲得した愛として執着するのではなく、今ここにある愛を受け取って生きればそれでいいのだと思う。思うのは簡単。でも、人間には(というかわたしには)執着があるから、どうしても「あの素晴らしい愛をもう一度」みたいになってしまう。でも、それをやっている限り、次にあなたわたしが体験できる愛が目に入らない。それって、愛なのたろうか?・・・たぶん、違うと思う。

話を戻したい。わたしがこの小説を読んで感じたことは、「自分を大切にすること」だった。その後、ここまで色々書いてみて、それは、「周りに合わせて自分を変えなくていい」ということだった。「周りと同じ価値観で自分を観察しなくていい / 定義付けなくていい」ということだった。「 '自分がどう思うか' を1番にしていい」ということだった。
たとえ、それを認めることが、自分と自分の愛する人との関係に、決定的なヒビを入れてしまうことになったとしても。

そもそも、そのようなヒビとは、初めからあるものなのだ。自分が都合よく見て見ぬふりしていただけだ。或いは、別のものの存在によって、カムフラージュされていただけだ。事実はときにこの上なく残酷だが、そのお陰で次へ進むことが、その先を選ぶことができるのだと思う。そして、その先にあるものは、また別の『愛』なのだと思う。そうやって愛は循環しめぐってている。綺麗事かもしれないが、わたしは主に綺麗事の世界に生息しているのでそれでいい。わたしのいう綺麗事は、綺麗ではできてないし、それを1番知っているのはわたしだからだ。

長くなった!今回はここまで。まだ何か出てきそうな気もするが、出てきたらまた書こうと思う。おしまい。




2024/11/05(250/366)



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