『隆明だもの』父親は「戦後最大の思想家」

全集は月報が面白い。月報とは、全集の各巻が刊行されるごとに差しはさまれる小冊子のこと。ようするに附録である。著者ゆかりの人物がエッセイでとっておきのエピソードを明かしていたり、著者の素顔について語られた座談会があったり、附録とはいえ内容は充実している。文学研究者のあいだでも、月報は作家の人となりを知ることができる貴重な資料とされる。講談社文芸文庫には月報だけを集めたラインナップもあるほどだ。

本書は『吉本隆明全集』(晶文社)の月報の連載をもとにしている。著者は吉本家の長女で、漫画家・エッセイストのハルノ宵子。吉本家は父・隆明、母・和子、長女・多子(さわこ:ハルノ宵子)、次女・真秀子(まほこ:吉本ばなな)の4人家族で、本書には、ばななとの姉妹対談もおさめられている。

吉本隆明(1924年-2012年)といえば、戦後思想界の巨人として知られる。とくに団塊の世代には神のように崇める人が多い。そんな吉本教の信者からすれば、本書は噴飯物の内容かもしれない。なにが彼らの神経を逆撫でするのか。それは、この本が、故人をただ讃えるものではないからだ。信者が教祖様を無条件に礼賛するようなノリとは、もっとも遠い文章が並ぶ。

たとえば最晩年の姿。吉本隆明だってボケるのだ。あれほどの知の巨人がボケるわけないだろう!と、信者は反発するかもしれない。だがそれは幻想でしかないと著者は突き放す。

本書によれば、その兆候は、2000年から始まっていたという(亡くなる12年も前だ)。真冬の深夜、書斎で寝転んでいたので起こすと、自分が今どこにいるか分からないと訴えた。いきなりそんな状態になった親を目にすれば誰もがショックを受けると思うが、本書がユニークなのは、深刻な状況を話題にしているにもかかわらず、さっぱりとした筆致で書かれているところ。著者の文書は、湿り気を帯びた悲壮感とは無縁である。

認知症が進行するにつれ妄想も出てきて、ある日、きちんとした服装でキッチンの椅子に座っているので、どうしたのかと思ったら、これから銀行に行くと言う。聞けば、さっき銀行から電話があって、娘が共産党のシンパで、党に金を流している疑いがあるので確かめに行く、というのである。情けなくて悔しくて、著者はワナワナと震える(銀行からの電話はたんなる相続セミナーの案内だった)。

妹夫婦にも父親は「共産党のシンパだ」と言いがかりをつける。妹が「でも、お父ちゃんだって、吉本はオウムのシンパだって言われたらイヤだったでしょ?」と言うと、「オウムって何だ?」と返され、皆でズッコケる。このくだりには笑ってしまった。

吉本は戦後まもない頃、共産党と激しく論争した。妄想のなかでも共産党と闘っていたとは、いかにも党派ぎらいの吉本らしい。

世間を騒がせた一件の話も出てくる。吉本家は毎年夏になると西伊豆に出かけていた。1996年8月、この海で吉本が溺れ、ニュース速報が出るほど大きく報じられた。

救急病院に向かう途中、ヘリが飛んできたので、「今日は天気がいいから、航空写真かな?」と思ったら、2機、3機と飛んでくる。「まさかね」と思っていたらそのまさかだった。後でわかったことだが、当時は各社の報道部長クラスがちょうど「吉本世代」だったのだ。自分たちの世代のカリスマの一大事とあって、「ヘリ飛ばせ!」となったわけである。

この時、病院にぞろぞろファンが集まってきたという話は本書で初めて知った。「矢も楯もたまらくなって」という気持ちはわかなくもないが、身内でも関係者でもないのに、病院のロビーを占拠しては迷惑だろう。著者によれば、熱心な読者には、往々にしてこの傾向があるという。「いい人」なのだが、距離感と想像力が欠如している。著者が彼らを”ガキの使い”と呼んでいるのにまたしても笑ってしまった。

だが、著者の毒舌は、けっして不快なものではない。下町の職人の家なんかに、こういう口の利き方をする娘さんがいるなぁという感じ。言葉の裏に優しさがあるのだ。

その優しさは、父親にも向けられる。最晩年の吉本は、認知症に加え、糖尿病で視力を失い足も悪くなった。亡くなる前、そんな状態にもかかわらず、杖を頼りに外へ出ていこうとしては玄関で動けなくなることがあった。これを老いの醜態ととらえる人もいるかもしれない。だが著者はそうではない。

著者はこれまでたくさんのノラ猫たちの世話をしてきた。そろそろ危ないかな……というノラが、力をふりしぼって軒下から出ていこうとする。暖房入りの箱に戻すと、また翌日繰り返す。そしてある日、力尽きて死んでいる。動物は、最後まで自分の力で生きようとして、1歩でも2歩でも進もうとする。そんな生き物本来の姿を、著者は父親に重ねているのだ。

本書はまた、優れた「吉本隆明論」でもある。
著者によれば、吉本家は全員が”スピリチュアル”だったという。たしかにばななの作品にはスピリチュアル系のものが多い。かたや隆明は理系出身だし、霊感のような非科学的なものとは遠いイメージがある。だが著者に言わせれば、スピリチュアルな能力とは、現代でいう”高機能自閉症”(サヴァン症候群)で、事実、父親の仕事は、まずインスピレーションが先にあり、論理はあとから構築していたという。この種明かしには驚いた。

さらに、本書を読んで、母・和子の存在感の大きさも強烈に印象に残った。姉妹が対談でなんども「怖い」と口にしているが、おそるべき人物だったようだ。妻として、あの吉本隆明とタメを張っていたのだから、並みの女性ではなかったのは当然かもしれない。もしかして、『共同幻想論』のキーである「対幻想」のコンセプトは、夫婦関係をもとに発想したのだろうか。

吉本家のつましい暮らしぶりも心に残った。吉本の著作は、どんなに頑張っても初版は6000部程度。しかも一冊に込めるエネルギーが半端ではないので、そうそう新刊も出せない。以前の著作が文庫化されても、年収は数百万ほどだったという。望めば、大学教授の口などいくらでもあっただろうに、定期収入のある職に就くことはなかった。講演も主催者の”言い値”で引き受けるので、自腹で遠方まで出向いたうえ、報酬がテレホンカード1枚ということもあったという。それでも、家族を食べさせていたのは立派である。

もう吉本隆明のような人は現れないのではないか。あれだけの才能という意味でもそうだが、かつての吉本家のように筆一本で暮らしていくのは、これからは難しいかもしれない。著者が父とよく行った上野の書店「明正堂」が閉店したのは2022年のことだ。活字世代でもある吉本のメイン読者層もいずれ鬼籍に入る。

時代は変わっていく。だが、吉本隆明の生き方はこれからも輝きを失わない。吉本は世間の反応など意に介さず言葉を発した。権威におもねらず、群れず、借り物ではない言葉で、自分の考えを誠実に語った。その生き方は、ネット世論の風向きばかりを気にするいまの時代、ほとんど反時代的といっていい。だからカッコいいのだ。

もしかしたら、若い読者にこそ、吉本の言葉はこれから必要とされるかもしれない。本書はその最高の入口となるだろう。

初めて吉本隆明を読む若い人には、まずこちらをすすめたい。人柄が伝わってくる一冊。

入門書の決定版。初期の吉本の思想を知りたい人はこちらを。


いいなと思ったら応援しよう!