おにぎりの哲学
私たちが普段目にするおにぎり。
腹の虫が鳴いたときにはもって来いのおにぎり。
今回はおにぎりについて思索していく。
なぜ三角形なのか?
なぜおにぎりは三角形なのか?そのなぞに関してはさまざまなTV番組や記事で紹介されている。過去に遡ると、諸説あるもののおにぎりの三角形は信仰心の現れではないかとされている。三角形なのは神が宿るとされる山の形を模倣したからだという。
また、おにぎり=三角形っぽいものだけではなく丸形のものも存在していたという。
その歴史関連の話は専門家の方に預けるとして、今回私が考えたい問いは以下のものだ。
なぜ神は高いところにいると思われるのか?
おにぎりの形は山を模倣したものであるという説を一旦受け入れるならば山に神が君臨していたと当時の人は思っていたと考えられる。少なくとも自分よりも高い地点に神の形而上的存在を見出したと言える。
人間が三角形のような鋭くそびえる(行事、慣習に関わる)物体を作る際には形而上的な物事がかかわってくることが多い。(クリスマスツリー、お正月の鏡餅、ピラミッドなどなど)
頂点(高いところ)に君臨するのは概して神や故人の魂とされる。
山の神について考えてみる。なぜ神は足もとにいると考えられないのだろうか。地の底にいると考えられなかったのだろうか?地獄と言う聞きなれた言葉があるが、なぜ「天獄と地国」と表記されなかったのだろうか?
ここで今私が思いついた結論を述べたい。
結論:理解できなかったから。
自分の足元、地面はまず自分が足で常に触れており、その上で生活することが当たり前であったことから人間は足元のことをわかった気になっていた。しかしながら、空に関しては手を届かせることもできず、過去には人工衛星など夢のまた夢であったことからも理解できる要素が足元に比べれば乏しすぎた。よって理解できない不安定なものに神などの不安定な要素を付与することによって理解することをやめたという推測ができる。わからないものには希望と言う名の不確定要素を付与しましょう、ということだ。
Column:イデア論とおにぎり
またまたあのおにぎりは山の形を模して作られたとする先の説を受け入れるならば、プラトンのイデア論に関してどのようなことが言えるのだろうとふと考えた。プラトンのイデア論によると我々が三角形と聞いて三角形の形を思い浮かべられるのは我々がイデア界というなんとも不思議な世界で正しい三角形の形を既に知っているからと述べられるのであった(超ざっくり説明)。
しかしこれはおにぎりの説とかみ合わない部分を生じさせる。
イデア論を採用するのならば「おにぎりとは既に知っていた三角形の形を具現化したものである」という解釈が可能だ。
「試しに三角形を作ってみました」というノリでつくったとする説である。山の形を模す(真似る)という説に対抗する説としてこのイデア論を採用した説は浮上する。
しかしやはりこのイデア論の立場をとるのは苦しい。言うまでもないことだがイデア界での記憶が全くないからだ。そのほかにもイデア論に対する反論は多く挙げられる。
以上、プラトンにおにぎりを見せたらどんな反応をするのだろうかと思ったために面白半分で書いたこのColumnでした。
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