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模倣主義を越えて(imitationalism)①

近頃隆盛している模倣主義。
私はこれに対し異論を唱えたい。
模倣主義とは次のように定義される。

人間は生まれてから間もなく他人の言語や行動を模倣して習得しようとする。それを拡大解釈して、結果的にすべてのものや人間のなすことはすべて何らかのの模倣であるとする考え方。 近年では厭世主義・虚無主義の派生的な考え方として受け入れられることが多い。

N百科事典 N出版社 20XX年

また模倣の定義は以下のとおりである。

自分で工夫して作り出すのでなく、既にできているものをまねること。

N百科事典 N出版社 20XX年

この模倣主義に対して私は以下の2つの点から反論する。
1.「新しいもの」は模倣ではない
2.感情、行為の模倣の分析

1.「新しいもの」は模倣ではない

 仮にすべてが模倣主義者(imitationalist)の言う通り模倣だったとしよう。そうしたときに彼らに問われるのは次のようなことである。

「すべてが模倣だとするのならどうして技術が発達しうるだろうか?」
「イノベーションはどう説明するのか?」
これらの質問にたいして彼らはこう答える。

「イノベーションすらも模倣だ。例えばスマートフォンなどどんなに画期的な発明も過去の素材や技術を用いて作られているからだ。発明は一見全く新しいものに見えるかもしれないが、よく目を凝らしてみると過去の産物の総体である。したがって全く新しいものが産まれたように思えるのは見かけ上そう見えるだけで実のところは模倣を集約させて新しいものを生み出したかのように見せているにすぎないのだ」
 
 この主張に対しては有名な思考実験である「テセウスの船」を参照したい。テセウスの船では物事を構成する物質が入れ替わったとしても、入れ替わる前と全く同じなのかどうかということが論点となる。ここで、模倣主義者たちは「全く同じ」という立場をとっていると考えられる。
テセウスの船において「全く同じ」という立場はテセウスの船を構成する物質(木材など)が更新されたテセウスの船を全く同じと主張するということだ。
しかしここでの注意点はテセウスの船では形は変わっていないということだ。スマートフォンの例で言うのならばガラケーの性能がどれほど発達しても形状はガラケーであり続けなければならないということだ。
模倣主義者たちは素材の面を過剰に重視している。しかし、スマートフォンという総体では全く新しい形状ができているのだ。これをどう模倣と表現しうるのだろうか。彼らは新しくできたものの全体を見ず部分的にしかに目を向けていないのだ。
 
このことから、新しいものに関しては模倣主義の考え方は適用されない。





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