リスキリングという言葉から思う、「経営論エコシステム」
「リスキリング」という言葉が最近良く聞かれるようになった。社会人のスキルアップ、ひいては社会人教育に近しい言葉だが、これを鑑みた際に日本における学術分野と産業分野の断裂にひとつの課題があるのではないかと思うのと同時に、米国が作り上げたMBA・経営学者と企業との「経営論エコシステム」の構築が日本の社会にも必要なのではないかと思う
リスキリングとは
日本の世の中で最近よく聞くようになった言葉だが、自分が仕事をしていく上で全く聞くことがなかったこの「リスキリング」という言葉。どうやら「Re-Sklling」ということをイメージした和製英語らしく、「学び直し」という意味で使われているらしい。
終身雇用を前提としてきた日本企業を中心に、会社で培ってきたスキルを改めて学び直しましょうという意図で使われているようで、会社にいる中高年の世代に対して用いられることが多いよう。「労働生産性」(とこれに伴う給与UP)という論点が物価上昇局面でよりいっそう強くなってきた昨今、また自民党総裁選で「労働市場改革」が論点に上がる中でも出てくるということで、とにかく、日本社会は「リスキリング」が必要ということだ。
社会保険労務士の妻に簡単に説明させると、「電卓叩いて計算してた経理のおじさんに、もうIT化が進んで電卓の仕事がないからプログラミングを学びましょう」というような話らしい。極端すぎるが、なんとなくイメージはこういうこ
社会人教育の弱い国、日本
言われてみれば、私が若い頃からよく言われるのは、「日本は社会人教育が弱い」ということだ。大人になると勉強はしなくなる。MBAが定着してきたことで大学に社会人が戻るということは珍しくはなくなっては来たものの、社会人教育の場はやはり少ないというのは現在もかわっていないのではないかと思う
日本流「オレ流経営」と、米国流「経営論エコシステム」
では、社会人が手っ取り早く学習をしていくとすると、やはり本を読むということになる。いまは少なくなったが、駅前の本屋に行くとビジネス書が並んでいて、定期的に新たな本を確認しに行くのが習慣化してきている。ビジネス書のエリアで平積みになっている書籍を見ていて、気がつくのは、日本人著者の多くは実業家の本であり、米国の著者の多くは大学教授/研究者であるということ。日本の大学教授の書籍は、政治や経済というエリアにはあるものの、ビジネスエリアにはほぼないのである。
では、日本人の実業家の本にはなにがかいてあるかといと、著者の成功の軌跡と「オレ流の経営理論」。読み物としては面白く、個人的に好きではあるが、アカデミズムとはだいぶ距離があるといのが実際だと思う。
一方で、米国の経営学者のビジネス書は、調査、データ、そして分析に裏打ちされ、新たな理論のひとつとして、仕上げられている。新たな経営コンセプトやリーダーシップ論は、大概こうした米国経営学者から出てきている印象を拭えない。
例えば、グーグルが打ち出した「心理的安全」は、グーグルとケロッグ大学が共同で研究を行った成果であり、ラリー・ペイジやエリック・シュミットがオレ流理論として話しているものではない。
では。この経営学者と企業が作り上げるエコシステムはいったいどういうものなのだろうか。
世界の経営論をリードするのは、やはり時を牽引する企業であることは揺るぎないと思う。GE流経営論、P&G流マーケティング、最近ではGAFAMに代表されるテクノロジー企業が世界の経営論を、牽引している。
では、経営学者の役割はなにか。米国の経営学者はこうした企業に入り込み、共同で調査研究を進めることで成功する企業のエッセンスを、データや分析に基づき、体系だった経営理論に昇華させるのである。同時に企業は、自分たちがうまくいった理由を、外部の力を借りることで体系だったものにし、再現性を担保することで、急速に大きくなり、またグローバルに展開される企業を、成功に導くのである。
また、こうした経営理論が教授から学生たちに広がっていることで、学生たちの経営能力が上がっていき、新たな企業が生まれていく。
MBAの役割と産学分裂の日本
MBAの役割は、学生が経営を学ぶ場、はたまたネットワークを作る場と言う解釈が多いとは思うが、私はこうした企業と経営学者の構築する「経営論エコシステム」が経済成長を作る、こうした役割の方が大きいのではないかと思う。
残念ながら日本は、このMBA、もしくは経営学という分野でも米国に遅れをとってしまっている印象で、同時に、ビジネスの世界と、アカデミックな世界が断裂してしまって、米国のようなエコシステムを構築しきれていないのではないかと思う。改めて日本の経営学の役割を見直し、「オレ流経営」から脱却した日本流経営理論の確立を、進めていくことができないか。と思う次第。