孤独にさせないという看護
「自己もまた、このような他者もしくは世界なしには決して存在せず、これらからの抵抗を受けながら存在する」
ディルタイ「歴史意識と世界観」より
ディルタイというドイツの哲学者の言葉だ。
ざっくり解釈すると、他人が居ることで自分が存在している、ということ。
私はこの考えがけっこう好きだったが、いざ書くぞと思ったら、どこで見たのかさっぱり忘れてしまった。大学の時に唯一(?)面白かった心理学の講義で知ったのだった。
人間のこころというのは、あるゆる人が言うように、実に複雑で、自己に都合よく、防衛のためには手段を選ばないような感じがする。その防衛には自死も含まれる。
私は精神科に入ってすぐは訪問看護をしていた。
精神科の訪問看護。まったく想像できず、名前だけでは魅力は感じなかった。
いわゆる訪問看護と違って、自宅やグループホーム、作業所などにいってもなにか処置をする訳でもなく、バイタルを測って薬を数える以外は、本人や家族と話をするのがメインだ。
例えば、10年におよぶ片思いの話。
それは絶対に叶いっこないのだが(相手は既婚者だし職員)、その利用者さんは週一回の私たちの訪問で必ずその恋愛相談をした。今週はこんなトキメキがあって作業のやる気が出たとか、挨拶したけど無視されたから昨日からご飯も食べてない、とか。一通り話したあと、利用者さんは自分で納得する。「やっぱ、俺は結ばれないんだよな。笑顔見るだけで元気もらってるんだ」
延々とそんな話を聞いて帰ってきて、最初は正直「?」しか浮かばなかった。
これが、看護?
先輩からは、患者の全体像を把握しろ、と強く言われていたので、私は個別に利用者さんの覚書ノートを作った。
全体像を捉える時よくいわれるのは、社会的・精神的・身体的な3つの要素を把握することだ。
そして片思いの利用者さんは社会的観点から天涯孤独の人だった。
いつも最後に言っていた言葉。
「俺ここだとなんでも話しちゃうんだよなあ。だから楽になるんだ」
こころの内を遠慮なく相談できる人。
彼にとっての私たちはそういう存在だったのだろうか。
もう1人、1ヶ月のうち私たち訪問看護師にしか人に会わない、という利用者さんもいた。
人に会わないと言うと語弊があるかもしれないが、宅配などを除いて、きちんと話をするのは私たちだけということだ。
利用者さんと看護師ふたり、やっと座れるようなスペースで、膝を付き合わせるように話をきいた。
いつも幻聴や症状に悩まされ、些細なことで不安になりすぐに体調が悪くなる自分を責めているような人だった。
「死にたい死にたいって思うけど、いざってなると怖くなる。それをこの前センセイに言ったら、またおかしなこと言ってるって言われて…おかしいことだって分かってるんですけど…」
先月もそんな内容だったと思う。そして自分を責めてまた苦しくなってしまうのだ。どうすればこのループから抜け出せるのか?私はだんだん苦しくなってきて、
「いえ…先生の考えと違って、私の方が変なことを言うかもしれませんが、それが、あなたなんだと思います…」
と、思わずそう言ってしまった。その後は先輩がメインで話をしたのであまり覚えていないが、利用者さんはその日、
「今日はなんだかほっとできました」
と言ってくれたので、少なくとも間違ったことは言っていないと思えた。
そしてこれが看護なのかな、と漠然と思った。
精神科の患者さんは天涯孤独な人も多い。
他者がいて、自分がいる。その他人が自分を見て話をしてくれるから自分も自分として存在していられる。それが証明になる。
しかし、社会と繋がりを持つには、誤解も多いから1人では難しい。
私たちと話をすることで、社会との繋がりと、自分の証明になっているのではないか。
精神科の訪問看護は、孤独にさせない看護だった。
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