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【映画感想】 『EO』

※ネタバレ注意※

レビューに偽りなし――――これはまさに鮮烈な映画体験だ。

本作の主人公(?)はEOと名付けられたロバ。ジャンルはEOのロードムービーのようにも、人間社会を痛烈に皮肉った社会派映画のようにも思える。かと思えば、ドキュメンタリー映画のような生き生きとした動物の描写にも目を惹きつけられる。

いや、もはやジャンルなどどうでもいい。
この映画を観た者は、誰もがEOになったかのような錯覚に陥るに違いない。そして、EOの視点を借りて人間社会を見つめることで、その理不尽さや奇妙さに気づかされる。しかし、ふと人間の視点に戻ったとき、それはなんの変哲もない日常なんだと思い直す。そうやって繰り返す内に、強烈な違和感に苛まれてしまう。
人間社会における”正しさ”や”普通さ”なんてものは、(限られた)人間が一方的に決めたルールでしかなく、それがあらゆるものに当てはまるわけではない。心のどこかでそれは分かっていたはずなのに、EOの無垢な瞳が現実感を帯びて訴えかけてくる。

EOへの没入感――――トランス感と言い換えてもいい――――は徐々に身体を侵食してくる。サーカス団で親愛なるパートナー、カサンドラと、一部の団員からはいじめられながらも、穏やかな暮らしを送っていたEO。しかし、突然の別れが訪れ、見知らぬ土地を転々とする。カサンドラとの再会も束の間、再度の別れに暴走して彼女に縋り付こうとする。結局、追いつくことは叶わず、夜の森に迷い込んでしまう。

EOの人生(ロバ生)は、間違いなくロバでありながら、現代社会を彷徨い生き抜かねばならないぼくたちと、相違ない。自分の力が及ばない領域に翻弄され、抗い、求め、それでも失ってしまう。EOの旅路の果てはどこなのか。

暗闇に塗り込められた森の奥で、レーザーサイトに身体を撫で付けられ、銃声が鳴り響く。自分の身体には鉛の弾も、傷痕もない。代わりに、隣で横たわる狼の腹部からは、止めどなく鮮血が湧き続けている。
――――あぁ、自分でなく良かった。ぼくは安堵する。

無数の蝙蝠舞うトンネルから這うように抜け出し、微かに白み始めた地平線を眺めながら青々とした草を食む。
――――これほどまでに美味しいご飯を食べたことがあっただろうか。この瞬間だけは、カサンドラとの別れの切なさを忘れることができたに違いない。

だが、物語は厳しくも美しい雄大な自然を生きるだけでは終わらない。舞台は暗転し、複雑怪奇な人間社会が姿を現す。

狂ったように叫び声をあげながらボールを追いかける数多の人間たち。意図も祈りもない、ただ一回の鳴き声の因果で、EOはその中心へと誘われてしまう。そして勝者と敗者という残酷な分断によって、EOは更なる悲劇へと落ちていく。人間社会に潜む理不尽性、残虐性をEOの身体を通して、痛い程思い知らされる。

「何で?」「どうして?」「何が悪かったの?」

絞り出すように問いかけるのは、EOであり、そしてぼくたち自身だろう。
しかし、EOの無垢な瞳を濁らせ、その穢れなき四肢を絡めとろうとするのは、フィクションやファンタジーではない。ぼくたちに人間が”普通に”生きている社会であり、現実なのだ。

そして物語は衝撃のラストシーンを迎える。雑多に詰め込まれ、生物としての尊厳を失った彼らは、己の運命を知ってか知らずか、後戻りできない路を往く。
このシーンは哀しく、無慈悲でありながら、何故か美しさも孕んでいるように思えてならない。滅びゆくものの美といえば聞こえはいいが、そんな格好いいものでもない。諦めと絶望の先にしか映らない、矛盾した絶景。
この映画を観て良かったと思えるラストである。

本作の作りについて述べると、主人公がロバであるため、当然ながらそこに台詞はない。それ以外にも、極限まで情報を削ぎ落としているため、特に序盤は理解が追い付かないこともあるが、それすらEOにトランスさせるための仕掛けなのだと思う。
他に特筆すべきはカメラワークと劇伴だろう。映像は動と静を強く意識していると感じた。自然は静かに雄大に、動物たちからは溢れんばかりの躍動感が伝わってきた。劇伴は当初少々大袈裟に思えたが、台詞が少なく静寂が満ちる画面には、あれくらいが丁度いい。後半は癖になってきた。特にラスト
盛り上げ方は圧巻だった。

あまり注目せずに観たが、ぼくの中では、今年一のヒットかもしれない。 


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