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【映画感想】『ちひろさん』
※ネタバレ注意
Netflixで視聴。尚、漫画は読んでないので映画の内容にのみ焦点を当てて書く。
まず、映像の美しさに圧倒された。静岡で撮影されたとのことだが、空や海などの自然は色彩豊かに鮮やかに、小さな港町特有の、どこか懐かしさの宿る温かな空気は確かな立体感をもって、伝わってきた。
Netflixというと潤沢な予算を使用した派手な映像効果というイメージが(自分には)あったが、本作では取り立ててそういうことはない。原作の特性上ということもあるだろうが、本作にはそのような演出は不要だろう。
また本作では音響の面で、劇判が必要最低限に抑えられていると感じる。それもこの世界の現実感を高め、この世界のどこかにちひろさんがいるのでは?と思わせてくれる一因になっている。
視聴中、そして視聴後に思うのは、「人生って悪くねぇかもな」ということだ。断っておくが、この映画は決して手放しの人生賛歌などではないと思う。それなのに、ちひろさんの生き様を見せつけられると、決して楽しいことばかりではない人生に、ささやかな祝杯を上げたくなるのである。
本作では、目立ってドラマチックな事件が起こるわけではない。それなのに、スクリーンから目を離すことができず、次の展開を待ち詫びてしまう。これは、何故だろうか。なんとなく感じられるのは、本作は緻密に組み立てられ、絶妙なバランスを保っている、ということ。ちひろさんを主役に据えながら、複数の登場人物に焦点を当てた群像劇のように話が進行するのも、作品の質を一段高めていると思う。
登場人物のキャラクターは、非常に練られており魅力的だ。
ちひろさんは強く優しく、そして自由だ。しかし、それだけではなく、哀しみ、切なさの影が見え隠れし、傷を隠しながら生きていることも示唆されている。ともすれば、脆く儚げで消えてしまいそうにも感じてしまう。
べっちんの秘密基地に少女漫画がたくさん並べられていたが、ちひろさんはまさしく古き良き時代の少女漫画のヒロインを思わせた。あまり多くは語られていないが、ちひろさんは複雑な家庭環境に育ち、決して恵まれていたわけではない。そんなちひろさんの心に灯り続けるのは、幼き日の”チヒロさん”との交流。今のちひろさんを形作っているのは、まさしく憧れチヒロさんそのものではないだろうか。
だからちひろさんは放っておけない人々を放っておくことができない。もっとも、本人に誰かを救いたいという思いがあるわけではない。ただ、チヒロさんのように生きたいのではないだろうか。
そんなちひろさんの周囲には、器用に生きられない人々が集まってくる。
特にホームレスのおじさんとの交流は、「ここまでするのか」と驚かされた。自腹(?)で弁当をおすそ分けし、自宅に招いて入浴の世話をし、自分の服も貸してあげる。過去の生きる宛がなかった自分を重ねているのかもしれないし、ただ単純に放っておけなかっただけかもしれないが、ちひろさんの心意気を感じずにはいられない。
そんなホームレスのおじさんは物語途中で逝去してしまうが、ちひろさんはその遺体を埋葬(土葬?)する。視聴中はさすがにこれはどういうことなのだろうと疑問が浮かんだ。役所に連絡すれば、火葬してもらったうえで、無縁仏ながら供養もしてもらえるはず。それでもちひろさんは自らの手で、おじさんを弔うことを決めたのである。
理由を考察すると、ちひろさんとして最大限おじさんの生と死を尊重したのだろうと思う。おじさんがホームレスになった理由は視聴者には明かされていないし、恐らくちひろさんにも直接話してはないだろう。それでもちひろさんは、おじさんの中に、自由を求め続けた末に辿り着いた現状を感じ取ったのではないだろうか。そんなおじさんにとってのふさわしい最期として、誰にも知られることのない、山の中を選んだのだと思う。邪推が過ぎるかもしれないが、自分の将来の果てを重ね、こうしてほしいという希望を、おじさんに捧げたのではとも考えられる。
一見恵まれているように見える女子高生のオカジもちひろさんに憧れる一人だ。オカジはちひろさんの自由さに惹かれたのだろう。他者から見れば幸せそうな家庭も、必要以上に夫に気を遣い、理想の家庭を追い求めざるを得ない母親が築いた、砂上の楼閣に過ぎないのかもしれない。その中で、同じく理想の娘を演じ続けるオカジは、まさしく檻の中の鳥のように息の詰まる思いだったのだろう。五月の風のように軽やかに生きるちひろさんに、救いを求めたのも痛い程分かる。
シングルマザーと2人暮らしのマコトは、ちひろさんに母性を求めたのだろう。2人の出会いはマコトが仕掛けたささいな悪戯から。説教も、そのあとのお弁当も、自分に対等に向き合ってくれたちひろさんに、甘えたくなったのは想像に難くない。
しかし物語は、シンプルではない。ちひろさんは、2人に対して助けてあげたいという気持ちで接してはいないし、またちひろさんが一方的に与え続けるだけではない。ちひろさんもまた、オカジやマコトに救われながら生きている。
生身の人同士の触れ合いで生まれる、押しつけがましくない陽だまりような温かみに、人生って悪くねぇなって思わされるのではないだろうか。
そして個人的に最も好きなのが、弁当屋の夫人、多恵さんとの交流だ。ちひろさんは正体を偽り、目の病?で入院中の多恵さんと接触する。この動機は明かされていないが、多恵さんに自らの母親の面影を重ねていたのではないか。
まず、ちひろさんが面接時の履歴書を除いて、唯一本名を明かしたのは多恵さんだけだ。もっとも、前提として自らの素性を隠すため、というのもあるだろうが、わざわざ本名を名乗る必要はない。前述したとおり、ちひろさんは実の母親と確執があることが明かされ、身の回りの人には、憧れの人の名であり、昔の源氏名でもある”ちひろ”を名乗っている。そんなちひろさんが、何故多恵さんには、自らの本名で接したのか。やはり、母親に「綾ちゃん」と呼んでもらいたかったのではないのか。どうしても断ち切ることのできなかった母親と自分を繋ぐ「名前」という糸の行方を、多恵さんに託したかったのではないだろうか。
終盤で店長からちひろさんに対して、「どっち(の名前)で呼ぼうか?」と問いかけられ、ちひろさんが逡巡するシーンがある。多恵さんと出会ってなかったならば、「ちひろ」と即答していたであろう。多恵さんと出会ったことで、母親と自らの過去とそして自分の名を愛すことができるようになったのではないだろうか。
そして多恵さんもまたちひろさんと同じように、どことなく浮世離れしたような雰囲気を纏い、深淵を見透かしたような印象的な台詞が多い。
「寂しい気配ががいなくなったから」
「孤独を手放さないことができる」
は何とも意味深だ。
自由に世界を歩くちひろさんも、孤独と紙一重なのかもしれない。言い換えれば、孤独を知らずに自由になれないということか。そして多恵さんもまた、孤独と自由の間の曖昧な境界線で揺れ続けていた過去があるのかもしれない。
そう、ちひろさんが同じ星で生まれたと3人目と称したように、彼女もまた”ちひろさん”だったのだろう。