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【映画感想】ナミビアの砂漠

 良い意味で予想を裏切られた。予告から匂わされる雰囲気は、河合優実扮するカナが暴れまわる、けたたましく賑やかな映画かと思っていた。しかし、その本質はとても静かで力強い作品だった。

 物語序盤、カナは友人からの真剣な相談も上の空に聞き流す、二人の恋人を好き勝手に利用し振り回すなど、自分本位の無茶苦茶な人柄であることが示される。しかし、(やる気なさげにみえるものの)仕事には真面目に取り組んだり、二人の恋人を除く他者に迷惑をかけるような振る舞いはしない。社会に許されるギリギリの境界線を飛び跳ねているように思う。カナ目線の捉え方になることを承知で表現するならば、「人生を楽しんでいる」といえる。それは、過剰に他人の目線や世間体を気にしながら、社会で怯えて生きる現代人を嘲笑うようで痛快ですらある。いわば、行き過ぎたモラリストたちへの警鐘のよう。カナの友人イチカのクラスメートは、自らその若い命を絶ってしまったという。その理由は詳細には明かされないが、窮屈で縛られた世界に殺されたのではあるまいか。カナはそんな世界からの解放を叫んでいるようで、非常に清々しかった。
 始めにも述べたが、本作では劇判の使用が控えめで、作品中の実際の音を重視している作りだと思ったが、カナが同棲しているホンダの家を飛び出しハヤシのもとに駆け出すときには、不釣り合いといえるほど煌めく音楽が彩っていたのが印象的だ。

 しかし、物語中盤からカナの生活に不協和音が響いてくる。後から思い出すと、カナの変調のきっかけはなんだったのだろうか。ハヤシに請われるまま、ホンダの家を飛び出してしまったことか、ハヤシと共にキャンプに参加したときか。キャンプでは、ハヤシの友人や両親などと関わりをもつようになるが、明らかに異なる世界の住人との交わりで浮いてしまい、ストレスを受けていたのは間違いない。やがてハヤシとのすれ違いは加速し、カナとそしてカナの生活は壊れていってしまう。
 エコーの写真が重要なアイテムとなり、「中絶」というワードがまたカナを苦しめていく。男のぼくの目線で女性の中絶の苦しさを完全に理解することはできない。そしてそれを言い訳するつもりもない。ハヤシが過去に交際していた女性を中絶させてしまったのは事実であり、内容によっては許されるべきではないだろう。ただし、その詳細がカナに語られることはないし、視聴者に対しても同様だ。そんな中、カナはハヤシを責め、モノづくりをするべきではないとまで言い放ち、挙句暴力を振るってしまう。
 この辺りからカナの心情を理解することが難しくなってくる。明らかに精神的に不安定なカナは、オンライン上の診察により「躁うつ病」の可能性が示唆される(正式に診断はされていない)。そしてカウンセリングの受診などを通じて、カナの心が病んでいることが明かされる。カナは「頭の中で考えること」と「顕現する行動」が一致しないことを恐れ、忌み嫌い、病んでいったのだろうか。そう考えるとターニングポイントはあのキャンプだったのかもしれない。あの場にいる参加者は、誰もが建前というヴェールで本音を覆い隠していた。ただ、現代社会で生きる上でそんなものは至る所に転がっているだろう。ゆえにカナの変調の原因としてはいささか弱いと思う。
 タイトルにもなっている「ナミビアの砂漠」。カナが時折、ナミブ砂漠のライブカメラを見ていることが物語の序盤から垣間見える。カナはなぜ砂漠のライブカメラを度々視ていたのだろう。そこに意識的にせよ無意識的にせよ、共感や救いを求めていたのだろうか。現代日本をナミビアの砂漠のようだと比喩するのは短絡的であると思うし、あまり共感もできない。ここはじっくり深堀をしたいところではある。

 画はなかなか面白いと思った。カメラはアップと引きをうまく使い分けて構成され、特に場面転換、舞台が変わるときにはあえて引きで映すことで、全体像を見せてから、人物にフォーカスしていく。これは東京という砂漠でぽつねんと佇んでいるカナを見せつけたかったのだろうか。

 それとキャスティング(+本人の演技力もあると思うが)が巧みだと感じた。なんというか、みんな”それっぽい”。 職場の後輩の慇懃無礼な感じ(カナの過去もこんな感じだったのではないだろうか)、カウンセリングの女性のどこか甘ったるい浮世離れした話し方、元同級生であり現官僚の自信に溢れ、どこか他人を見下す感じが、それっぽく、記号的な提示といわれればそれまでだが、物語に入り込む一役を担ってくれたと思う。

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