【映画感想】『マイ・ブロークン・マリコ』日常に潜む喪失を抱えて
強烈なキャラクターや疾走感溢れるストーリーから、鑑賞中ないし直後は、非現実的な創作物として受容し、解釈してしまいそうになるが、よくよく考えてみれば、劇中で起こっているのは誰にでも起こり得る現実だと思う。
身近な人を、何の前触れもなく喪失する。自分にとっての日常は破壊され、絶望し、打ちひしがれる。納得できない現実を前に、足掻いて、呻いて、暴れて……見つかるはずのない答えを探し回る。そんな自分を差し置いて、世界は当然のように回り続け、やがて自分も溶けるように、そんな世界に戻っていく。
そんな、誰の人生にでも起こり得る、だけど抗うことのできない一大事件を、ドラマチックに描き切ったのが本作「マイ・ブロークン・マリコ」なのではないだろうか。
親友マリコと主人公シイノの関係に名前をつけることはおこがましいことかもしれないが、あえて表現するなら、共依存のようなものではないかと、ぼくは思った。めんどくさいこともある女とぼやぎながら、決して見捨てることはできないシイノ、心配して本気で叱ってくれることに喜びを感じ、その存在にのみ実感を得ているマリコ。二人の関係は、見方によっては歪なのかもしれない。それでも(二人にとって)こんな救いのない世界で、生きていくための唯一の手段が、互いを求めあうことだったのだと思う。
一方的な依存と比較して、共依存の相手は、自分にとっての片割れのような存在であり、その喪失は身体の一部を失くすことに等しいのだと思う。それ故、マリコを失ったシイノの叫びが、これほどまでに胸を打つのだろう。
本作で、胸に響いたフレーズがある。マキオがシイノを諭すように呟いた一言だ。また、マキオ自身に言い聞かせているようにも聞こえる。
「もういない人に会うには自分が生きているしかないんじゃないでしょうか」
一聴しただけでは、「?」となってしまったが、なるほどこれは真理。
いなくなった人、死んだ人に会うために、自分も同じように死んだら、その人に会うことは叶うのかもしれない。だが、それは確実なものではなく、なんの保証もない。
ただ、自分が生きてさえいれば、自分の記憶の中で、思い出の中で、いつだって、その人に会うことができる。
そして、いない人と自分と二人で紡いだ思い出は、もう自分が生きることでしか、この世界に残しておくことはできない。それはある意味で重荷であり、ある意味で希望なのだと思う。
個人的に、この映画(あるいは原作)の素晴らしいと思う点は、マリコとの最後の旅路の果ての先の、日常に戻るまでを描いているところだ。
(あそこまで極端なブラック会社はないだろうが)あの会社はシイノにとっての日常であり、結局は毎日労働して生きていかなければならない。ドラマは永遠には続かない。
ぼくたちも人生を揺さぶられるような出来事に直面することもあるだろう。魂が震えるような喪失を経験するかもしれない。それでもやっぱり立ち直って、生きていかなければ、失った人との記憶を紡いでいかなければならないのだという、エールにも思えたのだ。
ラストシーンは文句なく美しい。マリコが送った手紙は、シイノだけのものであり、それ以外が入り込む隙は微塵もない。
だが観客として、その内容に思いを馳せ、そしてシイノにとっての救いであれと祈ってしまう。
もっとも、そんな心配は無用だと言わんばかりのシイノの一言で物語の幕は閉じる。
本作は、女性が抱える苦しみや生きづらさといった側面も孕み、警鐘を鳴らしながらも、誰の人生にも起こり得る、世界にとっては取るに足らない事件を、最大限の熱量で描いていると感じた。